2007年7月8日日曜日

場の空気を読むことの辛さ



忙しくて、しばらくブログが書けなかった。「書けなかった」というより「書きたいことがなかった」、というほうが正しい。仕事に追われ、仕事に没頭するのは、それなりに楽しく充実感もある。しかしその間、私は何も感じず、何も考えていなかったに等しい。だから、ブログのテーマさえ思いつかなかったのである。仕事が一段落して、やっと、ブログを書こうと思ったのである。

編集ディレクターとライターを兼ねている私は、この1ヶ月間、取材原稿を書きながらディレクターとしてクライアントやスタッフとの打ち合わせを毎日のように行った。普段はライターに徹している時間の方が圧倒的に長いが、ここ数ヶ月は、新規プロジェクトが同時にいくつも進行しているため、いつも以上に打ち合わせ時間が多かった。

そこで感じたことは、巧みに「場の空気を読む」若いヤツが多いことである。彼らにとって、最も大切なことは「自分の意見や考えを主張」することではなく、その場の空気を読み取り、自分に期待されている役割をこなすこと、のようである。初め、そうした言動が非常にスマートに感じ、たまに、場の空気を混乱させる発言があると、イライラした。

しかし、よく考えてみると、期待されていることをこなすだけでは、そこには個性も創造性も存在しない。かつて私たちは、いかに周りと違う発言をするか、みんなと違う行動をするか、ということを大切にしていた。今から、30年以上も前の話である。そして、周りと異なることは非凡や強さを意味しており、人と同じに見られることは最大の侮辱だった。しかし今は「場の空気を読めないヤツ」は軽蔑される。確かに、コンセンサスを無視した発言は周囲を混乱させるし、プロジェクトはスムーズに進行せず、無駄と思える時間と作業が新たに必要となる場合もある。しかし、それらは本当に無駄なことなのだろうか。

周囲と異なる意見を主張することは、いつの時代でも勇気がいる。特に今は「少数派」は「負け組み」と同じ意味をもつ。だからこそ、若いヤツは必死に場の空気を読み、「主流派」になろうとする。それはそれで良い面もある。みんなで決めたコンセンサスを守るのだから、プロジェクトはスムーズに進行する。しかし、みんなで決めたコンセンサスが、プロジェクトの進行と共に、間違っているのでは、と疑問が生じる場合がある。しかし大概、そうした間違いに気づくのはほんの数人で、ほとんどのスタッフは疑いもなく作業を進める。その時、場の空気を知りながらも異なる意見を主張できるか。それが大切なのかもしれない。特に世論が一定の方向に動き出した時、そこに生じた疑問や意見を主張できるか否かは、別の意味で大きな意味をもつ。

誰からも命令されたわけでもないのに、自ら進んで、自分の意見や考え方を自由に発言することを放棄し、場の空気を読むことにエネルギーを費やす。それはそれで、決して楽なことではない。時として、自由に自分の意見や考えを主張する方が楽な場合もある。しかし、今時の若いヤツは人と違うことを極端に恐れ、場の空気を読むこと、その空気に自分を合わせることにエネルギーを費やす。しかしそこには、やはり無理がある。そして、周囲に合わせることに疲れきった時に「空気を読む。周りに合わせる」という呪縛から開放されるならまだいい。若者のなかには、心底力尽きて、自分さえも見失う人が少なくない。