2008年6月30日月曜日

iPodと心臓ペースメーカー


昨年、iPodなどのデジタル音楽プレーヤーが、心臓ペースメーカーに障害を与えるという研究結果が報道され、注目されていた。しかし、ボストン小児病院ペースメーカー部のCharles Berul部長らは、音楽プレーヤーはペースメーカーに障害を与えない、という研究結果をHeart Rhythm(2008,5:545-550)に発表したと、Medical Tribune(2008.6.26)が伝えている。以下、同紙からの引用リライトである。

Berul氏らは、心臓ペースメーカー(PM)または植込型除細動器(ICD)を使用している患者51例(6~60歳)を対象に、Apple社、SanDisk社、Microsoft社の音楽プレイヤーの影響を検討している。

方法は、音楽プレーヤーを直接PMあるいはICDの埋め込み部位の上において作動させ、その影響を調べている。その結果、障害はみられなかったと報告している。

また、同氏らは255例の患者を対象に、音楽プレーヤーの影響を心電図で検討しているが、心電図に変化はみられず、不整脈が起こった患者もいなかったという。

この結果について同氏らは、「心臓ペースメーカーを入れていても、安心して音楽プレーヤーを楽しむことができる」、とコメントしている。

一方、PMやICDをチェックあるいは再調整する機器(医師が使用するもの)との接続時には、音楽プレーヤーが干渉する場合があることが明らかになった。しかし、機器から15センチ離せば問題ないという。

また、今回のテスト時間は短いため、長時間にわたって音楽プレーヤーを使用する場合は、埋め込み部位から15センチ以上離して使用することが望ましい、と同氏らは指摘している。

いずれにしても、埋め込み部位に接触させないで使用すれば、まったく問題ないということである。

FishのWidget

最近、楽しいWidgetが沢山できてきた。この手のものは、役に立つものより、ホッとするもの、楽しいものの方が、結局、長く愛されるのではないだろうか。
Widget専用端末;Chumbyも、もうすぐ日本上陸。これは絶対買いだ。

⇒右にあるFishにえさをあげてください。

横山秀夫著 『クライマーズ・ハイ』



横山秀夫の著作のうち、1冊を選ぶとすると、私は躊躇なく『クライマーズ・ハイ』(2003年)を選ぶ。
『半落ち』、『深追い』、『第三の時効』、『真相』、『影踏み』、『看守眼』、『臨場』、『出口のない海』など、多くの横山作品を読んできたが、『クライマーズ・ハイ』こそが、横山秀夫の最高傑作である、と思っている。

クライマーズ・ハイとは、興奮状態が極限にまで達して恐怖感がマヒし、怖さを感じないことだ。例えば、垂直に切り立った岸壁を登っている時にクライマーズ・ハイになると、全く恐怖感を感じずに一心不乱に岸壁を攻められ、気がついた時には岸壁のカシラに立っていることがある、といわれる。しかし、クライマーズ・ハイが解け時が怖ろしい。抑圧されていた恐怖心が一気に噴き出す。もし、岸壁を攻めている途中で解けると、そこから1歩も動けなくなる。


新聞記者である主人公は、翌日から同僚と一緒に、谷川岳一ノ倉沢、衝立岩正面壁を登る予定だった。しかし、御巣鷹山に日航123便が墜落し、全権デスクを任された主人公は、新聞報道の最前線で情報の山と格闘することになる。同時に、彼とアンザイレン(ザイルパートナー)を結ぶ予定だった同僚が不審な事故で植物状態になる。

主人公は、日航123便の事故を報道するうちに、だんだんとクライマーズ・ハイになる。しかし、あと一歩で世界的スクープをものにできる、その瞬間に、クライマーズ・ハイが解けてしまう。

「旧式の電車はゴトンと1つ後方に揺り戻して止まった」、という1文で始まるこの小説は、衝立岩登山の物語でも、日航123便墜落事故の報道物語でもない。真のテーマは父親と息子の関係である。父親は息子と、どのような関係で生きていくのか、どのようなザイルパートナーが望ましいのか、それがこの小説のテーマである。
幼くして父を失った主人公は、父との関係を知らない。そのことはまた、息子とどのような関係で生きて行けばいいのか、分らないということでもある。「後方に揺り戻して止まった」電車から土合駅に降りた主人公の人生は、そこから始まるのか、そこで終わるのか。

この夏、『クライマーズ・ハイ』が映画になる。監督は原田眞人。この原作をどう描くか、楽しみである。

映画『クライマーズ・ハイ』公式サイト

2008年6月22日日曜日

『乱暴と待機』を読む


「他者と繋がりたい」という切実な思いがあるのに、その方法が分らない人たちがいる。
「人に嫌われたくない」という思いが強い故に、自らの心に背を向ける人たちがいる。

本谷有希子著『乱暴と待機』(メディアファクトリー刊)は、そんな男女が主人公だ。
「物事のあらゆる結果には必ず原因がある」という持論に執着する英則と、「人から嫌われることを極端に恐れる故に人を拒むことができない」奈々瀬は、奇妙な同棲生活を行っている。

英則は、今の自分が不幸になった原因は、「あの時」の奈々瀬の言動にあるはずだと考え、それに見合う復讐を毎日考え続ける。奈々瀬は、色気を感じさせないスェットとだて眼鏡姿で家にこもり、英則からの復讐を待ち続ける。復讐が2人の関係を繋ぐ。

奈々瀬は、幼馴染だった英則を「お兄ちゃん」と呼ぶ。そして、こう語る。
「私がお兄ちゃんとずっと一緒にいられる理由があるとすれば、もう嫌われることはない、という安心感によるものかもしれない。お兄ちゃんといると、あまり疲れないで済む自分に気づく。お兄ちゃんだけは私にがっかりしない。がっかりするにはまず期待しなくっちゃならないから。それに復讐相手として憎まれている限り、お兄ちゃんが私から離れていくことだってない。だから・・・・復讐という関係性だけは失うわけにはいかないのだ。私達はその一点だけでつながっている。私にとって、それはたとえば愛情関係なんかよりもずっと確実なつながりに思える。永遠の愛は疑ってしまうけど、永遠の憎しみなら信じられる。愛に理由はなくても、憎しみには必ず原因がある。愛の理由が進行形だとしても、憎しみの原因は過去に存在すればいい。私もお兄ちゃんもそのことをよく知っている。だから私達は、この関係性を毎晩毎晩「明日は(復讐の方法を)思いつきそう?」「思いつくよ明日は」のやりとりで確認し合うんだろう。確実なつながりを求めるせいで、私達はもはや復讐なしで一緒にいることはできない」。

2人は6畳一間の小さなアパートに住んでいる。そこには、鉄製の二段ベットがあり、上に英則が、下に奈々瀬が寝る。そして、英則は毎晩ジョギングに行くと偽って屋根裏からこっそり奈々瀬の言動を覗いている。奈々瀬は、屋根裏から英則が覗いているのを知りながら、知らんぷりしている。実は、英則が屋根裏から覗くように仕向けたのは、奈々瀬自身なのだ。

復讐と覗きで繋がっている2人の関係は、4年間、それなりにうまく続いていた。
しかし、そんな2人の間に介入する者たちが現れる。1人は英則の同僚。もう1人はその同僚の恋人で、英則や奈々瀬の幼馴染。この2人の介入で、比喩的物語がリアリティをもって展開し始め、英則と奈々瀬の自意識は崩壊する。そして、それぞれの本音がぶつかった時、物語は現実を超えたリアルな関係を描き出す。

そして、奈々瀬は叫ぶ。
「えー、だから言ったじゃないですかー。めんどくさい女だって。こういう小細工するようなぁ、別れ際に絡むようなぁ、めんどくさい女なんですよ。私はぁー」

「はいはい。知らないほうがよかったですよね!? 幻滅させちゃってほんっとすいません! でも・・・幻滅ついでにあと1個だけ本心いってもいいですか・・・」

「めんどくさくても大丈夫っていわれたかったですよ! 私は! 山根さん(英則)に・・・めんどくさいの込みでずっと一緒にいてもらいたかったですよ!・・・・畜生ぉ!」

そしてこう続く。「これでいい。偽りから解放された私は、これでやっとこの欺瞞に満ちた小さな部屋をあとにすることができる」、と。

普通、ここで物語は終わる。ところが、著者は「そのあと」を描く。
奈々瀬の叫びと共に暗転した舞台は、さらなる展開をみせるのである。

2008年6月16日月曜日

父の日のプレゼント



6月15日の土曜日。子どもたちに誘われて、久しぶりに演劇を観に行った。
山田太一原作、オフィスSHIMAプロデュース公演の『終わりに見た街』だ。初演は23年前。当時の脚本を「ギィ・フォワシイ演劇コンクール」で最優秀賞を受賞した前嶋ののが、改訂・演出している(前嶋ののは、演出作品『関節炎』で、今年、最優秀賞を受賞している)。



この原作は、1982年と2005年にテレビドラマにもなっているので、
知っている人も多いと思うが、テレビドラマとは一味も二味も違う演出には、かなりリアリティがあった。小さな劇場の狭い舞台で、休憩なしの2時間。しかし、決して長いと感じさせない演出で、特に場面展開が見事だった。

ともすれば、太平洋戦争の体験を語ることは、過去の物語を語ることになりかねない。しかし、戦争は決して過去のことではない。
その意味で、主人公の娘が叫ぶ「私たちは今を生きている」という言葉には、いくつもの意味が重なっていた。

劇を観た後に、娘と息子と食事。1日早い父の日のプレゼントをもらった。

2008年6月12日木曜日

『Story Seller』の世界-2


スイスの精神分析家であるカール・ユングは、シンクロニシティ(共時性)と集合的無意識という概念を提示しているが、共時性については、たまに感じることがある。

昨夜、70年代生まれの作家たちの小説の面白さが分からないと書いたが、昨日スイスの精神分析家であるカール・ユングは、シンクロニシティ(共時性)と集合的無意識という概念を提示しているが、共時性については、たまに感じることがある。

昨夜、70年代生まれの作家たちの小説の面白さが分からないと書いたが、日経新聞の夕刊(2008.6.10)の文化欄で、「1970年代生まれの若手演劇人が小説の世界でも存在感を高めつつある」という評論が載っていることを、今朝、知った。

その記事によると、「今話題になっているライトノベルは、キャラクター(特徴的な登場人物)を優先している」と記されていた。確かに、私の読んだ7篇の小説にも、そのことは言える。一方、演劇出身の作家たちは「構築力、文章力というオーソドックスな側面を踏まえたうえで、新しい小説に挑んでいるように感じられる」と言う。

ここで紹介されている作家は、岡田利規、前田司郎、本谷有希子の3人だが、彼らについて筆者はこう記す。
「岡田の描く若者の社会とのつながり方、前田が描くコインの裏表のような連帯感と孤独感、本谷の描く現代人が持つ過剰な自意識。「リアル」な現代演劇の作り手たちは、小説においてもそれぞれの手法によって現実を超えた現実を描いているようだ」。

たぶん、昨日紹介した7人の作品に私が感じた失望感は、「現実を超えたリアルな現実」が描かれていなかったためかもしれない。
この3人の作品を読んでみたくなった。
の日経新聞の夕刊の文化欄で、「1970年代生まれの若手演劇人が小説の世界でも存在感を高めつつある」という評論が載っていることを、今朝、知った。

その記事によると、「今話題になっているライトノベルは、キャラクター(特徴的な登場人物)を優先している」と記されていた。確かに、私の読んだ7篇の小説にも、そのことは言える。一方、演劇出身の作家たちは「構築力、文章力というオーソドックスな側面を踏まえたうえで、新しい小説に挑んでいるように感じられる」と言う。

ここで紹介されている作家は、岡田利規、前田司郎、本谷有希子の3人だが、彼らについて筆者はこう記す。
「岡田の描く若者の社会とのつながり方、前田が描くコインの裏表のような連帯感と孤独感、本谷の描く現代人が持つ過剰な自意識。「リアル」な現代演劇の作り手たちは、小説においてもそれぞれの手法によって現実を超えた現実を描いているようだ」。

たぶん、昨日紹介した7人の作品に私が感じた失望感は、「現実を超えたリアルな現実」が描かれていなかったためかもしれない。
この3人の作品を読んでみたくなった。

2008年6月11日水曜日

『Story Seller』の世界


久しぶりに小説雑誌を1冊、全て読んだ。「小説新潮」の別冊『Story Seller』である。

この別冊は、7人の作家によるすべて読み切り・書き下ろしの小説集だ。
雑誌のタイトルより大きな文字で記された「面白いお話、売ります」というキャッチコピーと「読み応えは長篇並、読みやすさは短篇並」というサブキャッチに魅かれて買ったのだ。

内容について語る前に、まず作家を紹介しよう。
伊坂幸太郎(生まれは、1971年)、近藤史恵(同1969年)、有川 浩(同1972年)、米澤穂信(同1978年)、佐藤友哉(同1980年)、道尾秀介(同1975年)、本多孝好(同1971年)の7人である。

実は、私はこの7人を全く知らなかった。当然、彼らの小説は1冊も読んでいなかった。今回が初めてである。そして、どれも面白くなかった。唯一、読み終わって「ちょっといいな」と思ったのは、米澤穂信著『玉野五十鈴の誉れ』だけだった。

ここに描かれているものは、7人が共通して描いている世界は、非常に狭い人間関係なのである。1人の男と1人の女、あるいは1人の男と1人の男、1人の女と1人の女の関係なのである。その関係も、米澤穂信の『玉野五十鈴の誉れ』以外、微妙な距離を保った危うい関係なのである。

これが、70年代に生まれた作家の共通したテーマなのだろうか。確かに、彼らが育ってきた時代の人間関係、友達関係は、1952年生まれの私とかなり違うことは分かっている。伊坂幸太郎が『首折男の周辺』で描く、いじめが始まる瞬間の描写など、まさにそうなんだろうな、と思う。しかし、そこまでである。たぶん、同世代の読者はここに描かれた人間関係に、登場人物の会話に「そうそう、そうなんだよ」と共感するのかもしれない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。

それでも、面白ければまだ許せる。しかし、漫画の方がよっぽど面白い。

この別冊は、1人の編集者(38歳)の独断と偏愛に基づいて作り上げたものだという。そして、その編集者は「いくら文学的な価値があっても、面白いと思われなければ意味はない」と言い切る(東京新聞;2008年5月25日朝刊の読書欄)。

編集者が「面白さ」をコンセプトに、1年かけて、独断と偏愛に基づいて作り上げた小説が、なぜ、私には面白くないのか。面白くない小説を最後まで一生懸命、それも7遍も読んだ後に、私は悩んでしまった。

そして、こう考えた。彼らが面白いと感じるものと、私が面白いと感じるものは、かなり違うのではないかと。
どう違うか。それは、小説を読み終わった時に、「安心できる」か「不安になる」かの違いではないか、と。

自分の存在、自分とまわりの人間たちや社会との関係を不安定にさせる小説を、私は「面白い」と感じる。一方、彼らはリアルな生活では実感できない安定感と安心感を物語の中に求め、それを満たしてくれる小説を面白いと感じているのではないだろうか、と。
それは、突き動かされるか、包み込まれるか、の違いでもある。

2008年6月10日火曜日

ソウルの街を埋め尽くすローソクの明かり


      ▲ソウル光化門の交差点を埋め尽くす民衆(朝鮮日報より)

韓国の「聯合ニュース」によると、韓昇洙首相をはじめ閣僚全員が一両日中に辞意表明する意向であることを、李明博大統領に伝えたという(10日午前)。米国産牛肉の輸入再開決定をめぐる国政混乱の責任をとるためだ。

現在、韓国では「狂牛病の危険性のある米国産牛肉輸入に反対する国民対策会議」が、全国で100万人の「ろうそく大行進」を行っており、今夜(10日)、ソウルでは約14万人がデモに参加しているといわれている。
6月10日は、1987年6月に韓国全土で起きた民主化運動「6・10民主抗争」の21周年記念集会も同時に行われる。

100万人デモという国民的運動のきっかけを作ったのは、1人の高校生だという。韓国の学生たちは、自分たちの意志を「はっきりと示す」ことの大切さを知っている。自分たちの意思をきちんと主張することが、政治を変え、将来を創りだす唯一の手段であることを知っている。そしてなによりも、みんなの力、連帯の力を信じている。

   ▲ソウルの街を埋め尽くすローソクの明かり 「聯合ニュース」より

隣国のこうした抗議集会をみる度に、私は「日本人は実に大人しい」と思う。問題は年金や後期高齢者医療制度だけではない。
税金の無駄使い、憲法を無視した自衛隊の海外派遣、労働者を追い詰める大企業優遇政策。
散々、好き勝手にやられ、最後は「自己責任」という無責任な言葉で放り出させる。

私たちは、なぜ怒らないのか。
いつまで大人しく、言いなりになっているのか。
もしかしたら、私たちは既にあきらめてしまったのか。
もしかしたら、私たちはみんなの力を信じていないのか。
あきらめたら、みんなの力を信じないのなら、私たちに将来はない。

2008年6月7日土曜日

ホンダのライブコマーシャル

友人のブログで紹介させれていたホンダのTVCM。
先週末、英国のテレビで放送されていたという。
19人のスカイダイバーが大空に,H、O、N、D、Aの5文字を描くライブ映像。
Difficult is worth doing: Honda Accord Live TV Ad

2008年6月6日金曜日

瀬戸大橋を列車で渡る


岡山から松山へは列車の旅。
岡山駅11:34分発の「しおかぜ9号」で松山に向かった。
この列車の別名は「アンパンマン列車」だが、車体にアンパンマンの絵が描かれているだけだ。
岡山駅を出発した列車は、倉敷市茶屋町駅から南下し、瀬戸大橋を渡り、香川県の宇多津駅から予讃線に入る。
瀬戸大橋は、3つの吊橋、2つの斜張橋、1つのトラス橋をつないだ全長13.1kmの長大橋で、上部が自動車道路、下部が鉄道となっている。夜にはライトアップするらしい。
ライトアップの風景

▼車窓からの瀬戸内海


6つの橋をつなぐ瀬戸大橋の下には、橋桁となった小さな島がある。
▼運転手の後ろから前方をみると、まるで遊園地のジェットコースターに乗っているようだ。


香川県に着くと、そこは大きなコンビナートがあった。
列車は右手に瀬戸内海を見て松山に向かう。途中の水田では、田植えの真っ最中だった。気がつくと線路は単線。14:15に松山駅に到着。2時間41分の在来線の旅は久しぶりだ。松山駅の周辺は閑散としている。



▲ホテルの前の山頂に松山城がある。

ボーリングで一服

Widgetboxでみつけたボーリングゲーム。
かなり良くできている。面白いよ。
まず、「New game」をクリック。
次に「Go」をクリックして、上部のゲージが黄色のところで放す。


C型慢性肝炎



1975年以降、日本では肝臓癌で死亡する人が急増しており、その原因の約80%はC型肝炎ウイルスだといわれている。このC型肝炎ウイルスに感染している人は、現在日本に、約150万~200万人いるといわれている。しかし、きちんと治療を受けている人は約50万人で、残りの100万~150万人の中には、症状がないため、自分がC型肝炎ウイルスに感染していることに気づいていない人も多いといわれている。

C型慢性肝炎の治療方法は、年々進歩し、現在では60~70%の慢性C型肝炎患者さんでウイルスが排除できるようになってきた。しかし、残りの40~30%の患者さんでは、まだウイルスを排除することができない。特に、65歳以上の女性の治療が難しいといわれている。

そこで、今日(2008年6月5日)から松山市で開かれた肝臓学会では、高齢者、特に高齢女性に対する治療方法について、さまざまな報告が行われた。また、ウイルスを排除する新しい薬の開発も行われており、その有効性についてのも報告も行われた。その中に、非常に興味深い報告があったので紹介する。

それは、ニタゾキサニド(Nitazoxanide 商品名:Alinia)という薬の存在だ。この薬は、ランブル鞭毛虫、赤痢アメーバ、回虫、鞭虫、肝蛭などに使われてきた薬で、どうやらエジプトで開発された薬らしい。最近は、後天性免疫不全症候群(AIDS)などの免疫不全でおこるクリプトスポリジウム症の治療薬として期待されているものだが、この薬がC型慢性肝炎に効くことが明らかになった。

実は、かなり以前から、この薬がC型肝炎ウイルスの排除に有効であるという報告がなされていたようだが、「エジプトの薬」という偏見があって、先進諸国の医師たちは信用していなかったようだ。しかし、今年ミラノで開かれた欧州肝臓学会で、その有効性が発表され、多くの医師が注目し始めたという。

その有効性を簡単に説明すると、現在、日本で行われている標準治療法でウイルスを排除できなかった人たちに、
標準治療+ニタゾキサニドの治療を行うと、なんと4人に1人の割合でウイルスが排除できたという。つまり、標準治療では全く効果がなかった患者さんにニタゾキサニドを追加投与すると、25%の患者さんが治ることになる。
この数字は、現在先進諸国の大手製薬メーカーが開発しているC型肝炎ウイルスの治療薬の有効性より、はるかに高い。

ニタゾキサニドが、なぜ、C型肝炎ウイルスに有効かは分っていないが、既に多くの人がこの薬を飲んでいるので、その副作用・安全性は明らかになっているし、なにより値段が安い。

しかし、この薬が日本の日常診療で使えるようになる可能性は、ほとんどないと思われる。なぜなら、現在開発中のC型肝炎ウイルスに対する薬には、膨大な開発費が既に投入されており、ウイルスを排除する機序も明確だからだ。


              ▲Rossignol.et al. EASL2008より
                PegIFN+RBV:現在の標準治療薬
                NTZ:Nitazoxanide
                SVR:治癒率

2008年6月4日水曜日

ゾウはなぜ殺し屋になったのか



今日(2008年6月4日)、NHK教育テレビで放映された【地球ドラマチック ゾウはなぜ殺し屋になったのか】は、非常に興味深い内容だった。
ここに描かれていることは、単にゾウの社会だけのことではない。私たち人間の社会にも、全く同様なことが起こっている。唯一違う点は、ゾウは人間によって家族と社会を失ったが、人間は自らの手で家族と社会の絆を断とうとしている点だ。
そこで、その内容を番組のホームページから引用する。

■謎の事件-1
1992年、南アフリカ・ピラネスバーグ国立公園で見つかったサイの死体の傷は、サイ同士の争いでは絶対につかない、背中や首の後ろに集中していました。
サイよりも大きく力の強い生き物はゾウしかいません。死体のまわりにはゾウの丸い足跡も残されていたため、公園の担当者は近くにいたゾウを撃ち殺しました。すると、ぴたりと事件は収まりましたが、1年ほどのち、再びサイがゾウに殺され始めました。
サイを襲ったゾウは複数いて、すべてが若いオスでした。彼らは大人の年齢に達するよりもはるかに早い時期に性的に成熟してしまい、暴れていたのです。

■謎の事件-2
1996年、ケニアのアンボセリ国立公園では、マサイの人々の大切な牛がゾウによって殺される事件が次々に起きていました。マサイの人々は槍でゾウに反撃しましたが、ゾウの攻撃を止めることはできませんでした。

■謎の事件-3
2006年、ウガンダのとある村で、ある男性が畑から家に帰る途中で突然ゾウに襲われ、殺される事件が起きました。人間が何も攻撃していないのに、ゾウが襲ってくるのは珍しいことでした。

●3つの事件の真相・・・「人間の暴力」と「ゾウの心の傷」
ピラネスバーグ国立公園は1979年に作られました。そのとき、南アフリカ全土から野生動物が集められましたが、当時の運送技術では大人のゾウは運べなかったため、子ゾウだけが連れてこられました。邪魔になった母ゾウは子ゾウの目の前で撃ち殺されていたのです。
アンボセリ国立公園が1974年に作られたとき、古くからその土地に住んでいたマサイの人々は立ち退きを迫られました。彼らは不当な扱いに怒り、公園のシンボルだったゾウを殺して抗議していたのです。目の前で子どもを殺された母ゾウもいました。
ウガンダでは、1970年代、暴力と恐怖が渦巻いていました。アミン政権下で人間もたくさん殺されたこの時代に、ゾウもまた、肉や象牙を取るために大量に殺されていたのです。

感情豊かで、優れた記憶力を持っているといわれるゾウ。
何世代にもわたる家族が、一緒に暮らす動物です。
そんな家族の絆が人間の激しい暴力によって破壊されたとき、ゾウは健やかに成長するための環境を失い、心には大きな傷が残されました。
それが後にPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、ゾウが暴れる原因となったと研究者たちは考えています。

●ゾウ社会の再生を目指して
ゾウ社会を立て直す試みが始まっています。
南アフリカでは、別の国立公園から大人のオスが連れてこられました。すると、暴れていた若いオスたちはすぐにおとなしくなりました。ゾウの社会には、やはりきちんとしたお手本が必要でした。
人間は、野生動物を管理しようとしてゾウを傷つけ、ゾウはその苦しみのために暴れていました。すべての原因は、私たち人間のふるまいにあったのです。

原題:Revengeful Elephants
制作:Tigress Productions /イギリス/2007年
2008年6月4日放送

人間は血管から老いる



“人間は血管から老いる”といわれるように、血管は加齢と共に老化していく。血管が弾力性を失って、堅く脆くなった状態が動脈硬化である。血管は単に血液を全身に送る管ではなく、さまざまな働きをする大きな臓器で、その働きが衰えると血管が支える心臓、脳、腎臓、筋肉なども衰えていく。

加齢によって硬くなった血管は、高血圧や糖尿病などのストレスで容易に傷がつく。その傷に脂肪などのカス(プラーク)がたまると、血管は細くなり、十分な血流を臓器に送れなくなる。例えば、足の太い血管が詰まって細くなると、歩くと足に痛みを感じるようになる。普通、足が痛むと整形外科を受診する人が多い。しかし、治療を受けてもなかなか良くならない場合は、循環器内科や血管外科を受診する方がいい。特に、少し休むと歩行時の痛みが軽減する場合は、足の血管が詰まっている可能性が高い。同様に、心臓の血管が細くなると、十分な血液が心臓にいきわたらないので、歩行などの労作時に息苦しさを感じるようになる。これが狭心症である。

血管にたまった脂肪などのカス(プラーク)が崩れると血管が完全に詰まることがある。心臓の血管が詰まると心筋梗塞に、脳の血管が詰まると脳梗塞になる。

脳梗塞の原因の1つとして、最近注目されているのが、首の両側にある頸動脈にプラークができる病気だ。心臓から送り出された血液は、首の頸動脈を通って脳に至るが、その頸動脈にプラークができて細くなったり、そのプラークが崩れて血管が完全に詰まると脳梗塞の原因となる。

この病気は、「手で掴んだ物がポトリと落ちる」といった軽い運動障害や、「口がよく回らない」といった軽い言語障害などで発見されることもあるが、片側の眼が急に見えなくなって、数分で良くなる場合も頸動脈が詰まっている可能性が高い。

治療法は、血液をさらさらさせる薬(アスピリンなどの血小板凝集抑制剤)による治療と頸動脈を外側から切り開いてプラークのある部分を取り除く手術。さらに、狭くなった頸動脈に金属製の網状の筒(ステント)をいれる手術「頸動脈ステント留置術」がある(上の写真参照)。

「頸動脈ステント留置術」は、足の付け根(大腿動脈)から細い管(カテーテル)を入れて治療するので、全身麻酔の必要もなく、40分程で終了し、入院期間も数日から1週間と短い。全身へのストレスが少ないため、高齢者や心臓病などをもった人には、最適な方法だといわれている。

しかし今まで、頸動脈にステントを入れる手術には大きな問題があった。それは保険で治療が受けられなかったことである。心臓の血管や足の血管にステントを入れて治療することは、既に保険でできる。しかし、頸動脈や脳の血管にステントを入れる治療には、保険がきかなかったのである。
しかし、2008年の4月から頸動脈にステントを入れる治療も保険でできるようになった。
そこで早速、その手術現場を見学に行った。その様子は次回報告する。