2009年12月20日日曜日

短角牛のホルモン



秋田産の日本短角牛のホルモンが届いた。どう料理しようかと思案した結果、エバラ「生姜焼きのたれ」に、エバラの「焼肉のたれ 黄金 辛口」を少々入れてホルモンを30分ぐらいつけた。フライパンに胡麻油を少々たらして加熱。そこに、たれにつけたホルモンを入れて、汁が少なくなるまで煮詰めた。 
かなり、旨かった。

 ⇒このCGは凄い 

2009年12月19日土曜日

豚組のトンカツ



もしかすると、私が一番好きな料理はトンカツ、それも脂身の多いロースのトンカツかもしれない。「何を食べたい」と聞かれると、まず頭に浮かぶのがトンカツ。疲れた時に食べたくなるのもトンカツ。「最後の晩餐は?」と聞かれて思い浮かぶのは、卵かけごはん、カツカレー、そしてトンカツ。

そこで、美味しいと評判の西麻布の「豚組」にトンカツを食べに行った。写真は豚膳で、岩中豚、飛騨けんとん、琉香豚、永田の島豚、ホエー豚の5種類の豚肉が楽しめる。どれもとても御美味しかったので、TOKYO Xのトンカツも食べてしまった。

トンカツだけでなく、ご飯やキャベツも実に美味しかった。

2009年12月15日火曜日

今日は名古屋へ取材出張



今日は、名古屋への日帰り出張。C型肝炎の治療に関する取材。肝癌の原因の1つであるC型肝炎の治療は、近年急速に進歩したが、まだ治らない患者も多い。數年すると、新たな薬が使えるようになる予定だが、高齢者には副作用が心配だ。

夕飯は、新幹線の中で駅弁。「名古屋名物 コーチン わっぱめし」。

2009年12月13日日曜日

ブログ 再開

5月以来、ブログを書いていなかったが、再び再開することにした。
最初に、この春からの心臓の調子を記すと、まず、数年来服用していた抗不整脈薬を中止したら、それまで続いていた心房粗動が嘘のように自然に治まった。その後、心房粗動(頻脈発作)が起こっても数日から数週間で、自然に洞調律に戻るようになった。これまでは、年に数回は入院して電気的除細動を行ってきたが、今年は2月に入院治療を受けたのが最後である。

しかし、10月9日に始まった頻脈発作はなかなか治らず、67日間続いて、12月12日の就寝中に治まった。寝ていたが「あっ、心臓のリズムが狂った」と感じて目が覚めたので、かなりのショックがあったようだ。

それまでの67日間、1分間に約120回も心臓が拍動していたが、突然、半分の68回に落ちたので、体が慣れるまで時間がかかる。昨日は頭はボーッとし、消化器の動きも悪く、全身がだるかった。精神的な影響もかなりあるようで、脈が早い時は気分が高揚していたが、遅くなって、少し気分が沈んでいる。遅い脈(正常の脈だが)に慣れるには、数日かかりそうだ。

◆◆
今日の東京新聞に載っていた、山口二郎氏(北海道大学教授)の【本音のコラム】には賛成。いずれ此処で紹介する。
◆◆
同じ東京新聞の書評欄で紹介されていた、山岡淳一郎著「田中角栄 封じられた資源戦略」草思社刊が、面白そうだ。

2009年4月20日月曜日

苔玉



散歩をしていたら、盆栽ショップの軒先に小さな苔玉が沢山並んでいた。さっそく、2つ購入。連休から梅雨時までは、苔が一番きれいな季節。特に、淡い朝日が斜めにさす瞬間、早朝の光の中で露に光る苔が、最もきれいだ。でも、この美しい緑を維持することは極めて難しい。気温と湿度の管理、適当な風と半日陰。夏になるといつも元気がなくなり、秋になると茶色く変色してしまう。

2009年4月6日月曜日

酒宴の跡の残酷な景色


月曜日の朝の代々木公園。
花見の跡のゴミの山が残酷な風景を作っていた。


捨てられたブルーシートの上には、空のタッパと数本の缶ビールが残っていた。まだ酒宴の最中か、と錯覚させる悲しい風景。すえた匂いが漂う新宿歌舞伎町の早朝に似ている。人々は、自然を愛でる心を失った、としか思えない。


見上げれば、桜の花が青空に映えて美しい。

2009年4月5日日曜日

薬は不思議 


      ▲早朝から花見の準備

薬は不思議だ。
かなり強い抗不整脈薬を2種類服用していたが、ここ数ヶ月間、頻脈発作(150回/分)が続いていた。服用していた抗不整脈薬には、間質性肺炎を起こすという副作用がある。先月末、呼吸状態が少し気になったので、間質性肺炎を疑って胸部CT検査をしてもらった。

結果は、肺の辺縁にモヤモヤがみえるが、間質性肺炎ではないだろう、という診断だった。しかし、呼吸状態に違和感があったので、「頻脈発作が止まらないなら、しばらく抗不整脈の服用を止めて、呼吸の状態をみよう」と自分勝手に考え、主治医には内緒で服薬を中止した。

それから3日後、ちょうど薬の効果が完全に消える頃、突然、頻脈発作は止まった。それから、約1週間経つが、不整脈も無く、心拍数は安定している。
もちろん、抗不整脈は服用していない。

2009年4月4日土曜日

再び、北朝鮮のミサイル騒動について


4月4日 10:24 【平壌4日共同】北朝鮮の朝鮮中央通信は4日、人工衛星の打ち上げ準備が完了し、衛星が間もなく打ち上げられると報道した。

私は東京新聞を愛読している。理由は、その報道・編集姿勢に共感しているからだ。北朝鮮のミサイル報道でも、東京新聞は他のマスコミと一味違う記事を掲載している。それは、4月4日の朝刊に掲載された石丸次郎氏(アジアプレス)のインタビュー記事だ。

石丸氏は、「北朝鮮はどこかにミサイルを撃ち込もうとしているのではない。世界の、特に米国の関心を引こうとパフォーマンスをしている。それに日本政府が過剰反応している。金正日総書記はほくそ笑んでいるだろう」と指摘、日本政府の対応と過剰報道については、「それにしても、悪乗りし過ぎではないか」と述べている。

さらに続けて「ミサイル発射は国連決議に抵触するし、自国上空の通過に抵抗を感じることは理解できる。だが、北朝鮮の挑発的な言動に対する反応はあまりにも過剰だ」
「有効性に疑問のあるMDの宣伝や、選挙を意識した政治的意図があるのでは、と思わざるをえない」
「弱体化が進む北朝鮮軍の実態や、戦争どころではない経済の困窮ぶりを伝えるべきなのに、北朝鮮の脅威をあおるような報道は、国民をミスリードする危険性があり、罪深い」、と論評する。

そして、「北朝鮮に問題が多いのは事実。大切なのは、その隣国とどう向き合うのかというビジョンだ。」と語っていた。まさに正論である。

2009年4月2日木曜日

React Hysterically



最近のマスコミ報道、特にニュース・ショー番組の姿勢には目に余るものがある。それは、必要以上に危機感を煽っていることである。経済危機もそうだし、極めつけは北朝鮮のミサイル騒動だ。

今回の経済危機には「100年に1度」という枕詞がよく使われている。確かに、この不況はかなり深刻であることは事実だ。しかし「100年に1度」という言葉を頻繁に使うことで、政治責任や経営責任を回避できる雰囲気が生じていることに、マスコミは気づいていないのであろうか。

膨大な資産を有する大手企業が、率先して安易に人件費を削れるのは、「100年に1度」の経済危機だからだ。今回の不況については、あたかも、誰も予想ができなかったような論調が目立つ。果たして、そうなのであろうか。主に米国の低所得者の借金が日本経済を支えていたことを、そして、いずれその構造が限界を迎えることを、彼らが気がつかないはずがない。彼らは待っていたのである。皆に見える形で世界経済が崩壊することを。それが、Lehman Brothersの破綻であった。世界規模で経済が崩壊していく姿が皆に見えたとき、政治家や経営者の責任は霧の彼方に隠れ去ることを、彼らは知っていたのである。

北朝鮮は「人工衛星打ち上げのロケット」を発射すると発表した。しかし、多くの政府はロケットではなく弾道ミサイルの可能性が非常に高いと判断している。確かに、その可能性はある。しかし、ミサイルの着弾の可能性に備え迎撃態勢をしいた日本政府の対応や、連日ミサイルの脅威を煽るマスコミ報道は、極めてヒステリックである。

Reutersは「北朝鮮が打ち上げるのは弾頭ではなく人工衛星の可能性が高い=複数の米国防総省高官」という記事を4月2日に配信している。→参照
だが、このニュースを知っている日本人は少ないのではないか。

人間は、進化の過程で言葉と手の自由を獲得した。言葉は凍りついた心を癒す力を持っていると共に、人を死の淵に追いやる力も持っている。自由になった右手は、人を傷つけることもできるが、相手を抱きしめることもできる。

私たちは、言葉と右手で、労働者を物以下に扱う経営者と闘うことができる。北朝鮮に対しても言葉と右手で対応できる。どう対応するか、それは言うまでもないことだ。けんかを買うより、相手のメタ・メッセージを理解する姿勢の方が、大切ではないだろうか。

2009年3月30日月曜日

プロペラ機での取材旅行


3月は出張が多かった。その中で、最も楽しかったのは、36人乗りのプロペラ機SAAB 340Bでのフライトだった。兵庫県北部にあるコウノトリ但馬空港から大阪伊丹空港までのわずか40分のフライトだったが、久しぶりにのんびりした旅だった。

プロペラ機の良いところは、低空を飛ぶので、地上がよく見えること。頭の中に日本地図をイメージすると、今どこを飛んでいるのか、よくわかる。船や電車やジャンボ機での旅とは、ひと味違った時間を過ごすことができる。

20日からの3連休は、大阪で開催された循環器学会の取材。仕事の明き時間には、自分の病気に関するセッションを聞いていた。年々、不整脈の薬物治療やアブレーションのセッションが増えているように思う。

仕事柄、さまざまな医学学会を取材しているが、そこで共通して感じることは、プライマリーケアとかなり隔たりがあることだ。 確かに基礎的な研究や高度医療への取り組みは重要である。しかしそれ以上に、プライマリケアは大切だと思う。

プライマリケアを軽視すると、心臓の病気は分かるけど、消化器の病気は分からない医者。特定の臓器の疾患には詳しいが、全身状態を診れない医者が増えてくる。 そして、心臓の病気は治ったが、その患者は死んでしまった、ということがおこる。

ジョークではない。実際、抗癌剤治療の成績を聞いていると、癌細胞は小さくなったが、その患者は死んでいるという報告があるからだ。

2009年3月16日月曜日

57歳の誕生日に思ったこと



 昨日は誕生日。57歳になった。振り返ると、50歳代はずっと病を抱えていた。平成15年の11月に京都で倒れ、心房細動に伴う血行動態の悪化から多臓器不全になったのは51歳の初冬。それ以来、1年に数回の入院を繰り返し、未だに寛解しない。

 多臓器不全で入院するまでは、ほとんど病気をしなかった。入院したのは鼡径ヘルニアの手術をした幼児の時だけ。健康にはかなり自信があった。それだけに、出口の見えない病を抱えた生活は、当初、かなり苦痛だった。

 最も苦労したのは、体調が急変して緊急入院しなくてはならなくなった時のスケジュール調整だ。抱えている仕事をスタッフに振り分けたり、キャンセルすることは、かなりのストレスだった。

 しかし、何回か体調の急変に伴うスケジュール調整を経験するうちに、いつ急変しても何とかなるやり方が身に付いてきた。例えば、それまで自分一人で抱えていた仕事を何人かのスタッフに分散して任せることで、自分にしかできない経営業務をできるだけ少なくした。取材や原稿を任せられる外部スタッフも増えた。最も大きなことは「断る勇気」がついたことだ。

 それまで、頼まれた仕事はけっして断らないことをモットーにしてきた。その結果、いつもオーバーワークになり、ちょっとでも予定が狂うと、周りに迷惑をかけてきた。今から考えると、仕事を断ることが怖かったのである。しかし、ぎりぎりのスケジュールで目一杯仕事を抱えていると、体調の急変時に対応できなくなる。そこで、常に一定の余裕をもって仕事を受けるようにした。当然、断る仕事も増えるが、土壇場でキャンセルする仕事は少なくなった。

 今でも、体調の急変に落ち込むことはある。確かな治療方法がみつからないことに不安になることもある。しかし、悩んでいても何の解決にもならない。それなら、病を抱えた生活をいかに楽しむか、それを考えるのがこれからの人生。そんなことを57歳の誕生日に思った。誰にも明日のことは分からない。しかし、人は最後に必ず「死ぬ」のだから。 

2009年3月14日土曜日

ミステリー 2冊


 今週はミステリーを2冊読んだ。湊かなえ著『告白』(双葉社刊)と柚月裕子著『臨床真理』(宝島社刊)である。前者は第29回小説推理新人賞を受賞した『聖職者』を第1章として、書き下ろしなどを加えた長編で「週刊文春ミステリーベストテン」の第1位にランクインしている。後者は、第7回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作だ。

 『告白』を読み始めた時、そのモノローグ的文体に違和感があったが、第一章の「聖職者」はテンポと展開が見事で、実に面白かった。しかし、第二章以降にはミステリーとしての面白さはあまりなく、特に最終章の「伝道者」は無い方が良いと思われた。この文体では、著者の構成力と文章力が分からないので、第2作目の長編『少女』(早川書房刊)も読んでみたいと思っている。

 『臨床真理』は、テーマに興味があったので購入。書き出しのテンポは良く、序盤はスリリングなので一気に読めるが、途中で事件の真相が分かってしまう。そして、その予想通りに後半は展開していく。良い意味で、読者を裏切る「驚き」は無い。さらに、登場人物の言動にリアリティが欠けており、「ああいう行動をする人が、こんなことは言わない!」と感じる個所がある。展開が強引な個所もある。しかし、著者の眼差しには共感できる。眼差しに筆が追いつけば、良い作家になれる。そんな気がする。

2009年2月28日土曜日

続々 脳梗塞


久しぶりの取材で、倉敷に行った。JR倉敷駅の北口前には倉敷チボリ公園がある。都市型テーマパークとして1997年に開園したこの公園は、デンマークのコペンハーゲンにある世界最古のテーマパークである「チボリ公園」をモデルにしている。園内にはデンマークやアンデルセンをイメージしたアトラクションや庭園、ショップ、レストラン、劇場などが点在していた。しかし、昨年末に閉園。小雨の中で撤去作業が行われていた。

 さて、脳梗塞の続きです。点滴治療が始まると、だんだんと右手の指が動くようになってきた。しかしまだ、箸や筆記具を持つことができず、左手を添えながらスプーンを握って食事をとることがやっとであった。

 右手の指が麻痺し、筆記用具も満足にもてなくなった時には、「これでは仕事にならない。引退だな」、「それも悪くはない」、と思った。しかし、指が少し動くようになると「大丈夫かもしれない」と再び仕事への復活を期待するようになった。

 治療2日目から、点滴の合間に、リハビリが始まった。最初は満足に物が掴めなかったが、3日目ぐらいから握力が少しずつもどり、なんとかボールペンが握れるようになった。しかし、右手だけではペンと指の位置を調整できない。左手を使って右手の定位置にペンを移動させて、文字を書くリハビリを行った。

 普通、右手の指だけを動かしてペンを動かすことができるが、それができないのである。親指と人差し指で小さなものを掴むのも、かなり難しかった。

 点滴治療は10日間続いた。その間にリハビリを行い、右手はほとんど元の状態に戻った。お箸で食事ができるようになり、ボールペンで文字が書けるようになった。主治医は最低2週間は点滴治療を行いたかったらしいが、我が侭を言って10日目に退院した。

 その後、右手の症状は改善し続け、今では全く不自由を感じることがない。ただ、軽いものを親指と人差し指で、あるいは人差し指と中指で挟むと、ポロッと落ちる。指から脳へのフィードバック刺激が弱いようだ。

 右手が改善しても、脳梗塞を起こした瞬間の感覚は残っている。そのため、あれ以来、お風呂に入れない。シャワーだけで過ごしている。

2009年2月23日月曜日

続脳梗塞 サインができない


 救急外来で診察後、頭部のCT撮影を行ったが、病巣は明らかにならなっかた。MRIで検査すれば、もう少し詳しく分かるが、ペースメーカーを入れているので、MRI検査はできない。

 その間、右手の症状には変化はなかった。麻痺が悪化する様子も、緩和していく様子もない。担当医は、所見からアテローム性脳梗塞と診断。緊急入院をして、点滴治療が始った。

 治療にあたり、同意のサインを求められた時、ペンがもてないことに気づいた。ペンを掴むことが全くできないのである。その時に思ったのは、「仕事ができない」ということではなく、「カードで買い物ができない」、ということだった。

 右手にペンを挟み、左手で抑えながらのサインは、まるで幼稚園児が書いたような筆跡だった。右手にはほとんど力が入らなかった。そのサインを見て担当医は「治療の指標になる」と一言。サインがきれいになれば、麻痺は改善したことになる。

 治療はラジカットとキサンボンの点滴である。前者は脳梗塞後の神経保護に効果があるといわれており、後者は脳梗塞の急性期に起こる血小板の凝集を抑制し、脳の血流量を増加させることで麻痺などの運動障害を改善する、といわれている。この治療を10日から2週間続ける、と担当医は言った。

 点滴治療が始って数時間後、右手の指が少し動くようになってきた、と感じた。これは、ある程度、改善するかも知れないと思い、さかんに指を動かしながら、眠りについた。

2009年2月22日日曜日

やっと、2009年がスタート


 約2ヶ月ぶりに、気力が戻ってきた。気力。そう、「生活する」という基本的な気力が、やっと、戻った。この2ヶ月間は、ほとんど、ベッドの中で過ごしたといっても過言ではない。

 仕事始めの1月5日、まず風邪にかかった。熱や咳はなかったが、節々が痛み、なにより気力が無くなった。何もする気にならず、約1週間、ひたすら眠っていた。その後、一旦は回復して仕事を始めたが、1月18日の夕方、脳梗塞を発症した。

 その日は、寒かった。夕方に家に帰ってから、お風呂に入った。私には珍しく、本を読みながらの長風呂だった。右手に異常を感じたのは、風呂から出て、バスタオルで身体を拭いている時だった。

 一瞬、目眩を感じ、次の瞬間、右手が無くなった。右手の肩から先の感覚が、突然、消えたのである。しかしよく見ると、右手はある。ダランと肩からぶら下がっていた。左手で右手をつかむと、その右手は他人の右手だった。左手には右手をつかんでいる感触があるのに、右手にはつかまれている感覚が全くないのである。とても不思議な感覚で、脳も混乱していた。

 瞬間、私の脳裏にひらめいたのは「心臓の血栓が脳に飛んだ!」とうことである。私は発作性心房細動があるので、血栓(血の固まり)ができやすい、そこでワーファリンという薬を飲んで血栓を防止しているのだが、右手の感覚が無くなった時には、「心原性脳塞栓」という病名が浮かんだ。

 しかし、次の瞬間、右手の感覚が突然戻った。その間、多分数十秒だと思う。感覚の戻った右手で、パソコンの検索窓に「一過性脳梗塞」と打ち込んだ。その時、右手は正常に動いた。検索で表示された一過性脳梗塞の症状は、まさに自分の症状だった。その段階で「これは脳塞栓ではないな。多分、一過性脳梗塞だから、次回の外来の時に症状を話して、脳梗塞の検査をしよう」と考えた。

 しかしそのうち、右手の指が痺れだし、力も入らなくなってきた。明らかに、脳梗塞の症状が進行していた。そこで、主治医の携帯に電話し、急いで病院に向かった。
 
 右手の感覚を失ったのは17時45分。病院に着いたのは18時30分。その段階で、右手の指は麻痺しており、動かすことも、物を掴むこともできなかった。麻痺は確実に進行していた。