2007年12月26日水曜日
War on Terrorとパッチギ!LOVE&PEACE
休日に『出口のない海』と『男たちの大和』をDVDで見た。
前者の原作は横山秀夫の小説で、脚本は山田洋次と『うなぎ』(1997年)の冨川元文。監督は『半落ち』(2004年)の佐々部清。
後者の原作は第3回新田次郎文学賞を受賞した辺見じゅんの小説で、監督は『陸軍残虐物語』(1963年)でデビューした佐藤純彌。
共に特攻をテーマにして、戦争のむなしさを語る映画であるが、戦争のとらえ方は異なる。
『男たちの大和』は愛する人を救うために死んでいく男たちを英雄的に描くことで、彼らをそこまで追い詰めた太平洋戦争を無意味なものとして描く。
一方、『出口のない海』に登場する男たちは、愛する人との生活に未練を残し、死を恐れ、無駄死にする。ヒロイズムを徹底的に排除することで戦争そのものを否定する。
この2つの表現手法は、戦後の反戦映画の主流ともいえるが、今という時代に照射すると両者共にリアリティが全く感じられない。リアリティのある戦争映画とは、たとえば井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』(2007年)であり、ケン・ローチ監督の『麦の穂をゆらす風』(The Wind That Shakes the Barley;2006年)である。
『パッチギ! LOVE&PEACE』で、ヒロインの父親はひたすら戦争から逃げまくる。ひたすら戦争から逃げた男のことを「父は決して卑怯ではない。逃げてくれたから私が生まれることができた」と娘であるヒロインは評する。
愛する人のために戦争で死ぬことより、愛する人のために戦争から逃げて共に生き続ける方がリアリティがある。ましてや愛する者に未練をもちながら無駄死にすることは、何の共感も得られないのではないだろうか。
一方、アイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦を背景に、価値観の違いから対立することになる兄弟を描いた『麦の穂をゆらす風』は、今という時代を写す優れた戦争映画である。なぜなら、それまで仲の良かった兄弟が、共に独立戦争を戦った兄弟が、価値観の違いによって争うことになる、というジレンマこそ、現代社会における戦争の一面を的確に照射していると思えるからである。
第2次世界大戦とその後の朝鮮戦争やベトナム戦争、そして現在の「テロとの戦い」は、質的に全く異なる。
姜尚中と小森陽一の対談集『戦後日本は戦争をしてきた』(角川oneテーマ21)で小森が指摘するように、第一次世界大戦、第二次世界大戦は約4年間で終結したが、テロとの戦争は6年を超えてまだ続いており、イラクは泥沼状態で出口はみえず、アフガンの治安も悪化し続けている。
小森は言う「本来、テロを取り締まるのは警察で、テロリストは逮捕の対象である。しかしブッシュは、主権国家をテロリスト集団に見立て、国家間問題を国内問題であるかのように描き出し、警察の代わりに軍隊を動かしたわけです。逮捕が戦争に置き換えられたのです。そして多くの人々が「これがテロだ」という明確な考えを抜きにして、非常に幅広い意味で「テロ」という言葉を無責任に使ってしまうようになった」(同書;p22-23)。
そして、姜が言うように「対テロ戦争の一環としてのアフガニスタン戦争やイラク戦争には、相手に対する公式の宣戦布告がなされていません。その意味で「War」とはいえませんね」(同書;p53)。
これまでの戦争と全く異なる戦争に我々は直面し、戦争とはいえぬ戦争に自衛隊は参加している。そして、『麦の穂をゆらす風』に描かれた兄弟のように、イランやアフガンニスタンでは内戦が激しくなっている。
こうした時代において、我々はどうすればいいのか。
それは『パッチギ! LOVE&PEACE』が主張するように、逃げることしかできない。
ひたすら「主体的に逃げる」ことである。テロとの戦いに少しでも関わる事柄から積極的に逃げることである。少なくても「テロ」という言葉を無自覚に使わず、「テロに対する警戒」という言葉、その延長上にある「自己責任」や「普通の国」という言葉に騙されないことである。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
1 件のコメント:
ベトナム戦争で死んだ若者達は私と同世代です。特に米兵は徴兵された裕福でない人々でした。高校生の頃「徴兵制」についてよく語り合いました。「君ならどうする」が主なテーマです。当時好きだった女の子が「ここにいるみんなは、ピースサインで刑務所に入ってね」と言いました。私はあまり深く考えていなかったけれど、そうしようと思いました。
コメントを投稿