2007年6月3日日曜日

圧倒的な力 グレゴリー・コルベールの世界



肝臓学会の取材でお台場に行ったので、時間をつくって、グレゴリー・コルベールの「Ashes and Snow」を見にノマディック美術館に行った。

コンテナをモザイク状に積み上げた現代アート風の外観とは異なり、美術館の内部は僧伽藍摩を髣髴とさせ、神秘的な雰囲気さえ醸し出していた。そこに、畳1畳分の大きさのセピア色の写真が並んでいる。その中の1枚、象の前足の手前に蹲る子供の僧侶の写真。私はこの写真に引き付けられた。それは、とてつもなく深く大きな慈悲に包まれて安らかに眠る姿に見え、忘れていた遠い昔の懐かしい感覚に包まれた。

しかし、一連の写真や映画を見ているうちに、次々に疑問が沸いてきた。どうやって撮影しているのか、カメラは何処にあるのか、この動物たちは動物使いにコントロールされているのか、実際はコンピュータ処理がされているのではないか、動物と人間が接しているように見えるけど、超望遠レンズで撮影しているので、実際は動物と人間の間に距離があるのではないか、とさまざまなことを考えた。

しかし、象の群れの中で踊る踊り子の姿や、水中で鯨や象と踊るダンサーの姿を見ているうちに、そんな疑問はどうでもよくなった。
考えることや疑問をもつことが馬鹿らしくなるほど、映像が圧倒的な力をもっていたのである。

人間と動物がそこにいる。お互いは無関心のようにみえるけど、何かが両者を包んでいる。何が両者を包んでいるのか。圧倒的な信頼感、圧倒的な慈悲、圧倒的なやさしさ、圧倒的な思いやり・・・・少なくても、僕が忘れていた懐かしい感覚が両者を包んでいた。

三度しかし、映像の中の人間はみんな目を閉じているのに、動物たちは目を見開いている。森の人、オランウータンは人間に興味を示す。ハイエナは踊り子を恐れる。一方、象や豹や鯨は人間の存在を気にしていない。映し出された人間は自然に身をゆだねる一方で、情熱的な舞踏が繰り広げられるシーンもある。・・・・これらは何を意味しているのか。たぶん、そこに意味を考えてはいけないのかもしれない。でも、制作者の意図を考えてしまう。

そして思った。人から「感激した、楽しかった、うれしい、すごいね」といわれたとき、「なぜ」、「何処に」と問う時がある。そこには、理由を言語化しないと感情を素直に受け入れられない自分がいる。理由なんかどうでも良い、何しろ「すごいぜ」と言い切れない自分がいる。たぶん、「言語化できない何かを全身で感じる」ことを忘れているのかもしれない。

最初に感じた「忘れていた懐かしい感覚」は遠い昔の記憶。たぶん、母親の胎内で感じていた絶対的な安らぎ、に違いない。

▼Ashes and Snow at the Nomadic Museum

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