2007年6月4日月曜日

梅宮龍彦編集長のボヤキ




久しぶりに、感情移入しながら一気に読み終えたコミックと出会った。安野モヨコ著『働きマン』である。舞台は週刊誌の編集部。主人公は編集者の松方弘子、28歳。単行本の1,2巻は主に彼女を中心として話が展開するが、私が感情移入したのは、主人公である彼女の仕事へのスタンスではない。編集部の雰囲気と45歳の編集長、梅宮龍彦のボヤキである。

20代後半、私は編集プロダクションでPR誌の編集をやっていた。当時は平凡出版(現マガジンハウス)の「アンアン」「ポパイ」「ブルータス」「オリーブ」といった雑誌が斬新なエディトリアルデザインで日本の若者文化を牽引する一方、構造主義を武器に文化そのものに切り込んでいったのが、企業の広報部が発行する「エナジー」「花椿」「談」「十条ニュース」「東電文化」といったPR誌であった。

企業の免罪符でもあった当時のPR誌は、販売部数をまったく考えないで制作できる稀有な媒体で、かなりマニアックなものも存在したが、いわゆる文化人と呼ばれる人たちに評価されれば、かなり自由に、やりたいことがやれた。そのため、PR誌の編集者達はかなり個性的で、一般企業では決して勤まらない知的アウトロー達、超我侭な人達が多く、その編集部はさながら梁山泊のようであった。

私のいた編集部も自己主張の強い酒飲みが多く、夕方5時を過ぎると、編集部全員が社の前にある飲み屋の座敷に移動し、そこで編集会議が始まる。編集会議といっても、その実態は自己主張大会、批判大会で、同僚が編集したページを批判し、同僚の書いた原稿にイチャモンをつけ、完膚なきまでに相手をやっつける。それが編集会議であった。

このように描写すると、批判しているように聞こえるかもしれないが、私は懐かしいのである。そして、『働きマン』を読んだ時に思い出したのが、この編集会議の様であった。振り返って考えると、当時はみんな過激で、批判は的確だった。相手の批判に怒鳴り返しながらも、どこかで納得している自分がいた。

そして30歳の時、自分で編集プロダクションを立ち上げた。当時は自信に満ち溢れていた。何の根拠もないのに、怖いものは何もなかった。何でもできると思っていた。いや、自分が一番だとさえ思っていた。だから、スタッフに対しても厳しく、決して妥協することはなかった。

あれから30年が過ぎた。そして今、『働きマン』に登場する梅宮龍彦編集長と同じように、ぼやいている。
「あー、いつから俺達は怒んなくなったんだろうな」
「確かに怒鳴られて 殴られて 上 憎んだりもしたけど 「怒る」ってのは そいつのこと引き受けるってことでもあるから 後から思うと ありがたいよな」
『やってみせ 言ってきかせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ』
「そこまで やんねーと 動かない奴は いらねんだよ!!」・・・・と。

しかし一方で、主人公の松方弘子のように「その時代の勢いや 書いた人のエネルギーや力が」伝わるような仕事をしたい、と今でも思っている自分もいる。

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