2007年8月11日土曜日
参院選の結果に思う
東京新聞の「筆洗」(8月5日)に興味深いデータが載っていた。
先の参院選挙で当選した人の55.7%は憲法九条を変えることに反対している、というデータである。
そもそも、参院選の争点の一つは憲法を変えるか否かにあった。しかし選挙間際になって、年金や政治とカネの問題、閣僚の不始末が争点として急浮上してきた。結果は、自民党の惨敗、民主党の一人勝ちだった。しかし、投票の時に、憲法問題を意識して投票した人は非常に少なかったのではないだろうか。なぜなら、憲法を変えることにはっきりと反対している、護憲を主張する党が議席を減らしているからである。
一方、「憲法九条は守りたい」と考えていても「革新政党には票を投じたくない」と考えた人も多かっただろう。しかし、もはやそんな甘い考えでは、何事も変わらないのである
憲法問題については、さまざまな人が、さまざまな意見を述べているが、その中で卓越した発言をしているのが作家の高村薫である。高村は「憲法は国民が主権者であることを保証していると同時に、ときどきの政権が自らの政策の正当性の根拠とするものである。そのため、首相や閣僚は憲法の遵守を義務づけられているのだが、その彼らが率先して憲法改正を叫ぶのは、明らかにおかしい。ましてや政治課題にしたり、選挙の争点ににしたりする性格のものではないのは、言うまでもない」、「政権与党として尊重すべきは、国民が六十年も憲法を享受してきたという事実のほうだろう」と指摘し、「憲法は私たちとともにあり、時代や社会とともにあるのだから、私たちが欲すれば、変えることはできる。しかし私たちは、いま憲法を変える理由があるか」と問う。そして「安部政権は、美しい国を連呼するだけで、国民のために憲法改正を急ぐべきことの合理的な説明をしていない。そういう政権に、そもそも憲法をいじる資格はないと、私自身シンプルに考えている」と述べている(高村薫;社会時評,東京新聞,5月15日,2007)。
まさに高村が指摘するように、私たち一人一人が「今、憲法を変える理由があるか?」よく考えることが大切なのである。
参院選の結果をみて、もう一つ感じたことは「まだ日本人は本気で怒っていない。もしかしたら、怒りを忘れてしまったのかもしれない」ということだった。
今、私たちが考えるべきことは憲法問題だけではない。社会の格差は確実にひろがっている。日本は年間3万人以上の人が自らの命を絶つ社会である。生活保護を一方的に打ち切られて餓死する50代もいる。公園にはホームレスがあふれ、ホームレスの年齢は年々低年齢化している。そして、何事も「自己責任」の一言で切り捨てられる。人々は生贄を求めるようにヒステリックにバッシングを繰り返す。
憲法改正の先にあるものは、日本が集団的自衛権を行使できる国になることである。そして、格差社会が完成すれば富のほとんどは一握りの人々に集中する。再び、資本が一か所に集中するのである。その時何が起こるか、それは過去の歴史が教えてくれる。
いま求められているのは、過去の歴史に対する確かな知識と将来に対する想像力である。
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2 件のコメント:
憲法は国家権力の暴走を抑止するための取り決めです。けれどもそのように理解してる日本人はどれほどいるでしょうか?
自己責任といって国家に頼らない国民を作ることによって装置としての国家の重要性を権力自身が否定している矛盾はどうするつもりなのでしょうね? いざというとき頼ることができない国家って、国家ですか? それなのに国旗掲揚して君が代を歌わなければならないなんて・・・。思考停止以外の何者でもないですよ。
ほんとうに、そうですね。
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