2008年4月16日水曜日

出版パーティー 『分断時代の法廷』



前韓国大統領の金大中氏が「韓国の代表的な良心的人権弁護士」と呼ぶ韓勝憲(ハン・スンホン)氏の著作が翻訳され、岩波書店から出版された。
『分断時代の法廷―南北対立と独裁政権下の政治裁判―』である。
そして、その出版パーティが、今夜、東京で開かれた。

本書は、「(韓弁護士が)40年余りに渉って担当した時局事件、政治事件百件余のうち、50件を選んで、事件の概要(時代背景、政治状況、裁判経過と結果など)を自ら綴る。朴正煕(パク・チョンヒ)政権から盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権まで、韓国の民主化、南北統一、人権擁護を求めた粘り強く広範な人々の戦いの軌跡を、法廷という場を中心に、弁護士の立場で証言する」(本書の「そで」のコピーより)。

そして著者は、本書の「帯」にこう記している。
「本書が1960年代以後の韓国の政治状況と歴代軍事独裁の中で、民主主義と人権を獲得するための韓国国民の戦いを理解するのに役立てば嬉しく思います。
韓国が今のように自由と民主主義を享受できるようになるまで、実に多くの人々の戦いと犠牲が重なったという事実も忘れることができません。そして、その方々の信念と受難をありのままに伝えることが、殺伐とした法廷の弁護人席を守った私の「忘却防止義務」であると考えています」。

本書は、1965年の小説『糞地』筆禍事件から始まり、金芝河の詩『五賊』筆禍事件、徐勝氏らの在日同胞留学生スパイ事件、延世大学教授拘束事件、光州民主抗争と続き、2003年の宋斗律教授事件で終わる。

ここに記された1970年の『五賊』筆禍事件から1980年の光州民主抗争までの約10年間は、まさに私が韓国と密接に関わった10年間でもある。そして、本書の著者である韓弁護士と出会ったのが1981年のクリスマス。私は、光州民主抗争で捕まりクリスマスに釈放された何人かにインタビューをしていた。

その際、本書にも登場するフランス文学徒であり演出家だった加村赴雄氏に託された手紙とカンパを、その年の5月に釈放されたが弁護士資格を停止されていた(1983年に復権)著者に届けた。
それが、韓弁護士との出会いだった。

2008年4月11日金曜日

私の心臓の話 その4



ペースメーカ-は鎖骨の少し下に埋め込むので、まず、その部分に麻酔注射をうつ。そして麻酔が効くと電気メスで切開し、大胸筋の膜の下にペースメーカーを埋め込む。次に鎖骨下静脈という血管の中を伝って心臓の中まで導線を入れ、導線の先を心臓の内壁に固定する。その後、導線とペースメーカーを接続し、傷口を縫い合わせて終了する。
私の場合、導線は2本で、それぞれ右心房の内壁と左心房の内壁に固定されている。



普通は2時間ほどで終わる手術だ。手術前日に行われた医師の説明でも1~2時間程度で終わるといわれた。しかし稀に、鎖骨下動脈に導線が入らない場合があるが、その場合は他の血管を使う。また、稀に心臓の内壁がツルツルで導線の先を固定することが難しい場合もある、と医師は説明した。しかしいずれの場合も極稀である、とのことだった。

ところが、私の場合、この稀なことが重なった。まず、鎖骨下静脈がいくら掘っても出てこない。そこで、第2選択の血管に導線を入れた。すると次に、心臓の内壁に導線の先がなかなか固定できない。少し引っかかっても、咳をするとすぐに外れてしまうのだ。極稀なケースが2つ重なったことになる。そこで手術が終わるまで5時間を要することにとなる。

局所麻酔なので、この間、当然意識はある。医師との会話もできるし、医師の焦りと困惑も伝わってくる。手術室の焦りと緊張が極に達した時、医師がこう言った。
「少し休もう。でも、あきらめたわけではない。必ず、うまくいく」
その言葉通り、5分の休憩後、それまでの事態が嘘のように、電極の先端が心臓の内壁に固定された。いくら咳をしても、もはや外れることはなかった。

ペースメーカーが開発されたのは1950年代の後半で、最初のものは下の写真のように体外式で、非常に大きなものだった。それがわずか40数年で4×5cmの大きさになり、身体の中に埋め込んだまま5~7年間も動き続けるようになるのである。

               ▼最初の体外式ペースメーカー


◆参照:ペースメーカ-について

2008年4月9日水曜日

プラハの春 ラサの春


▲プラハのお土産。木の笛と独楽。

娘がプラハ&ウィーンの旅から帰ってきた。
プラハというと思いだすのが、春江一也著『プラハの春』(集英社文庫)。

1968年の春。チェコスロバキアは、国民の自由化運動に応えるように、新任のドプチェク党第一書記のもとで自由化政策がとられていた。しかし、8月20日の深夜にソ連率いるワルシャワ条約機構軍が侵攻し、チェコスロバキア全土は占領下におかれ、自由化運動=プラハの春は終焉する。
本書は、当時のプラハを舞台に、民主化を求める活動家カテリーナと外務省職員堀江亮介の恋を描いている。

プラハの春から40年経た今年の3月。
中国チベット自治区の首都ラサで大規模な抵抗運動が起きた。
中国人民解放軍がラサに進駐してチベットを併合したのは1950年のことである。
その後、チベットの人々は自由と独立を求めて大規模な抵抗運動を何回か起こしている。
最初はダライ・ラマが追放された1959年の3月。それから30年後の1989年の3月にも大規模な抵抗運動が起こっている。その結果、これまでに100万人を超える犠牲者がでていると言われている。

中国はなぜ、強硬手段でチベットを統治しようとするのか。
それは、チベットに眠っている豊富な地下資源にあると、今日の「NB online」が伝えている。

1968年春のプラハと2008年春のラサ。
人々が求める自由と独立は、いずれ実現することを歴史が語っているが、その実現には多くの犠牲を伴う。
ラサでは今、プラハの春の悲劇が繰り返されている。

娘がウィーンで買ったチョコレート。
オーストリアでは、Mozartもチョコレートのなっていた。