2008年12月11日木曜日

「私は貝になりたい」と「最後の戦犯」の視点の違い


先日、「私は貝になりたい」を見た。と、言っても現在公開中の映画ではない。1959年に公開されたフランキー堺主演の映画をDVDで見たのである。そして、今なぜ、中居正広主演でこの映画をリメイクする必要があるのか、不思議に思った。
多分、1959年にこの映画を見るのと、2008年にこの映画を見るのでは、物語の解釈がずいぶんと違うのではないか、と考えた。

そんな時、「最後の戦犯」というドラマを見た(NHK、12月7日、21:00)。ドラマの主人公である吉村修は、1945年8月10日に日本軍が米軍捕虜を処刑した「油山事件」に関与した見習士官である。吉村は上官の命令に背けず、捕虜を殺害する。そして戦争が終わると、GHQの追求を恐れた元上官の命令で逃亡する。しかし、1949年7月に逮捕され、最後の戦犯として横浜軍事法廷に立つ。
 
この「最後の戦犯」も「私は貝になりたい」と同様に、BC級戦犯を描いたドラマである。しかし、「私は貝になりたい」は、「絶対服従の軍隊において、上官の命令で捕虜を処刑したことが、なぜ戦犯になるのか」という視点のみが強調されているのに対して、「最後の戦犯」は、「命令とはいえ、捕虜を殺害したという事実に向き合おうとする主人公の葛藤」が描かれていた。

法廷の吉村は「捕虜の処刑には、自ら志願した」と主張する。上官の命令とはいえ、人を殺したことには変わりない、と吉村は思う。そして、自分の罪を受け入れるのである。
この視点こそが、まさに今日的ではないだろうか。

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