2008年12月16日火曜日

桜庭一樹著 『私の男』



読み終わっても、作者が紡いだ物語が心の中に息づき、時間と共に膨らんで、わたしの物語として続いていく。そんな小説が好きである。桜庭一樹著『私の男』(2007年)は、まさにそんな小説である。

【私の男は、ぬすんだ傘をゆっくり広げながら、こっちに歩いてきた】 という一文で始まる『私の男』は、 【この手を、わたしは、ずっと離さないだろう】 で終わる。
男と女の物語ではない。父と娘の物語である。

『私の男』は直木賞を受賞しているが、その選考委員の一人である林真理子は、以下のように評している。

「私はこの作品をどうしても好きになれなかった・・・作者がおそらく意図的に読者に与えようとしている嫌悪感が私の場合ストレートに効いたということであろう・・・主人公の女性にも父親にもまるで心を寄せることが出来ない。・・・私には“わたし”と“私の男”が、禁断の快楽をわかち合う神話のような二人、とはどうしても思えず、ただの薄汚ない結婚詐欺の父娘にしか思えない」→参照

わたしも、この物語を「禁断の快楽をわかち合う神話のような二人」とは思わない。しかし、「ただの薄汚ない結婚詐欺の父娘」とは思えないし、「作者が意図的に嫌悪感を読者に与えようとしている」とも思わない。

この物語は、血のつながりがもつ両義性をみごとに描いている、とわたしは思う。そこには、共有できる「リアルな虚構」が存在する。幼き時に、求めても得られなかった血の温もりを求めあう二人を、凍てつく北の海と下町の湿った重い空気が包み込む。救いのない物語から、いかに再生するか。それは作者の創造力によるものではない。読者の想像力によるのである。

『私の男』は、かなり興味深い小説であり、もう一度じっくり読み返したい、と思える貴重な1冊だった。
そこで、桜庭一樹の『荒野』(2005~08年)と『ファミリーポートレート』(2008年)を続けて読んだが、どちらも、『私の男』との接点を見いだせなかった。『赤朽葉家の伝説』(2006年)は買ったが、まだ読んでいない。

もしかすると、桜庭一樹の作品の中で、『私の男』は、かなり異色の作品なのかもしれない。

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