2008年6月11日水曜日

『Story Seller』の世界


久しぶりに小説雑誌を1冊、全て読んだ。「小説新潮」の別冊『Story Seller』である。

この別冊は、7人の作家によるすべて読み切り・書き下ろしの小説集だ。
雑誌のタイトルより大きな文字で記された「面白いお話、売ります」というキャッチコピーと「読み応えは長篇並、読みやすさは短篇並」というサブキャッチに魅かれて買ったのだ。

内容について語る前に、まず作家を紹介しよう。
伊坂幸太郎(生まれは、1971年)、近藤史恵(同1969年)、有川 浩(同1972年)、米澤穂信(同1978年)、佐藤友哉(同1980年)、道尾秀介(同1975年)、本多孝好(同1971年)の7人である。

実は、私はこの7人を全く知らなかった。当然、彼らの小説は1冊も読んでいなかった。今回が初めてである。そして、どれも面白くなかった。唯一、読み終わって「ちょっといいな」と思ったのは、米澤穂信著『玉野五十鈴の誉れ』だけだった。

ここに描かれているものは、7人が共通して描いている世界は、非常に狭い人間関係なのである。1人の男と1人の女、あるいは1人の男と1人の男、1人の女と1人の女の関係なのである。その関係も、米澤穂信の『玉野五十鈴の誉れ』以外、微妙な距離を保った危うい関係なのである。

これが、70年代に生まれた作家の共通したテーマなのだろうか。確かに、彼らが育ってきた時代の人間関係、友達関係は、1952年生まれの私とかなり違うことは分かっている。伊坂幸太郎が『首折男の周辺』で描く、いじめが始まる瞬間の描写など、まさにそうなんだろうな、と思う。しかし、そこまでである。たぶん、同世代の読者はここに描かれた人間関係に、登場人物の会話に「そうそう、そうなんだよ」と共感するのかもしれない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。

それでも、面白ければまだ許せる。しかし、漫画の方がよっぽど面白い。

この別冊は、1人の編集者(38歳)の独断と偏愛に基づいて作り上げたものだという。そして、その編集者は「いくら文学的な価値があっても、面白いと思われなければ意味はない」と言い切る(東京新聞;2008年5月25日朝刊の読書欄)。

編集者が「面白さ」をコンセプトに、1年かけて、独断と偏愛に基づいて作り上げた小説が、なぜ、私には面白くないのか。面白くない小説を最後まで一生懸命、それも7遍も読んだ後に、私は悩んでしまった。

そして、こう考えた。彼らが面白いと感じるものと、私が面白いと感じるものは、かなり違うのではないかと。
どう違うか。それは、小説を読み終わった時に、「安心できる」か「不安になる」かの違いではないか、と。

自分の存在、自分とまわりの人間たちや社会との関係を不安定にさせる小説を、私は「面白い」と感じる。一方、彼らはリアルな生活では実感できない安定感と安心感を物語の中に求め、それを満たしてくれる小説を面白いと感じているのではないだろうか、と。
それは、突き動かされるか、包み込まれるか、の違いでもある。

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