2007年5月15日火曜日

自分の価値観と暮らしを愛するには


2007年5月14日。
今日、通称「国民投票法」が成立。
正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」。
その名称に「国民投票」の文言はない。
また、衆院イラク復興支援特別委員会は、この7月末で期限が切れるイラク復興支援特別措置法を2年間延長する同法改正案を可決した。

時代は、確実に、一定の方向に向けて動き出している。

日曜日の新聞に興味深いコラムが掲載されていた。
そのコラムを要約すると、以下のようになる。
現憲法は国家を否定しているため、戦後、日本人は国民共同体としての国家をまともに論じてこなかった。だから「国家をつくる」、「国家を守る」という発想は生まれてこなかった。国民は政府に要求すべきは要求し、同時に国家にどう役立っていくか、担うべき責務は何かを考えるべきである。そこで、現憲法の第3章「国民の権利・義務」は一度破棄して最初から書き直すべきである。
国家というのは日本人の価値観の塊であり、日本人の価値観そのもを取り戻すことが憲法改正である。

つまり、現憲法で否定された「国家=日本人の価値観の塊」を取り戻すことが憲法改正である、と言う。
そして、十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法に現された日本人の価値観こそ国家なのだ、と語る。

確かに、戦後生まれの私には「国家を守る」という発想は全くない。しかしその原因が、現憲法が国家を否定しているためだ、とは気がつかなかった。ましてや、国家が日本人の価値観の塊であるとは考えもしなかった。

私に「国家を守る」という発想がないのは、国家が国民を守ったことはなく、しばしば国民の人権を侵すからである。
そもそも国家という概念は、近代が生み出した幻想に過ぎないと考えている。
一方、「明治憲法に現された日本人の価値観こそ国家なのだ」と言われれば、明治憲法を否定している現憲法は、国家を否定していると言える。しかし、「明治憲法に現された【日本人】の価値観」という言い方はおかしい。正確には「明治憲法に現された【国家権力】の価値観」ではないだろうか。
そしてそれは、否定すべき価値観だと思っている。

「憲法とは国家権力に対する猜疑の大系である」と言ったのはトマス・ジェファソンである。
つまり、国家権力はしばしば人権を侵すので、それを疑いの眼をもってみる、その基準が憲法であり、だからこそ、第3章「国民の権利・義務」が重要になるのである。

そろそろ、自分の考え、意見、価値観、立場をはっきり主張しないと自分の暮らしさえ守れなくなりそうだ。
国を守るという価値観の元、公権力によって自分の暮らしと自分の価値観を失うことは、二度としてはならない。

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