2007年12月27日木曜日
2007年もあと5日
クリスマスも終わり。今年もあと5日。例年なら、もう休みに入っている時期だが、今年はまだまだ仕事が終わらない。でも、何となく気分は「のんびり」。だから、ますます原稿が進まない。
休日に読みたい本。
『奪われた記憶―記憶と忘却の旅』ジョナサン・コット著 求龍堂
『天才と分裂病』デイヴィット・ホロビン著 新潮社
『感情の起源―自立と連帯の緊張関係』ジョナサン・H・ターナー著 明石書店
『本当は不気味で怖ろしい自分探し』 春日武彦著 草思社
『能の見える風景』 多田富雄著 藤原書店
『トラや』 南木佳士著 文芸春秋
2007年12月26日水曜日
War on Terrorとパッチギ!LOVE&PEACE
休日に『出口のない海』と『男たちの大和』をDVDで見た。
前者の原作は横山秀夫の小説で、脚本は山田洋次と『うなぎ』(1997年)の冨川元文。監督は『半落ち』(2004年)の佐々部清。
後者の原作は第3回新田次郎文学賞を受賞した辺見じゅんの小説で、監督は『陸軍残虐物語』(1963年)でデビューした佐藤純彌。
共に特攻をテーマにして、戦争のむなしさを語る映画であるが、戦争のとらえ方は異なる。
『男たちの大和』は愛する人を救うために死んでいく男たちを英雄的に描くことで、彼らをそこまで追い詰めた太平洋戦争を無意味なものとして描く。
一方、『出口のない海』に登場する男たちは、愛する人との生活に未練を残し、死を恐れ、無駄死にする。ヒロイズムを徹底的に排除することで戦争そのものを否定する。
この2つの表現手法は、戦後の反戦映画の主流ともいえるが、今という時代に照射すると両者共にリアリティが全く感じられない。リアリティのある戦争映画とは、たとえば井筒和幸監督の『パッチギ! LOVE&PEACE』(2007年)であり、ケン・ローチ監督の『麦の穂をゆらす風』(The Wind That Shakes the Barley;2006年)である。
『パッチギ! LOVE&PEACE』で、ヒロインの父親はひたすら戦争から逃げまくる。ひたすら戦争から逃げた男のことを「父は決して卑怯ではない。逃げてくれたから私が生まれることができた」と娘であるヒロインは評する。
愛する人のために戦争で死ぬことより、愛する人のために戦争から逃げて共に生き続ける方がリアリティがある。ましてや愛する者に未練をもちながら無駄死にすることは、何の共感も得られないのではないだろうか。
一方、アイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦を背景に、価値観の違いから対立することになる兄弟を描いた『麦の穂をゆらす風』は、今という時代を写す優れた戦争映画である。なぜなら、それまで仲の良かった兄弟が、共に独立戦争を戦った兄弟が、価値観の違いによって争うことになる、というジレンマこそ、現代社会における戦争の一面を的確に照射していると思えるからである。
第2次世界大戦とその後の朝鮮戦争やベトナム戦争、そして現在の「テロとの戦い」は、質的に全く異なる。
姜尚中と小森陽一の対談集『戦後日本は戦争をしてきた』(角川oneテーマ21)で小森が指摘するように、第一次世界大戦、第二次世界大戦は約4年間で終結したが、テロとの戦争は6年を超えてまだ続いており、イラクは泥沼状態で出口はみえず、アフガンの治安も悪化し続けている。
小森は言う「本来、テロを取り締まるのは警察で、テロリストは逮捕の対象である。しかしブッシュは、主権国家をテロリスト集団に見立て、国家間問題を国内問題であるかのように描き出し、警察の代わりに軍隊を動かしたわけです。逮捕が戦争に置き換えられたのです。そして多くの人々が「これがテロだ」という明確な考えを抜きにして、非常に幅広い意味で「テロ」という言葉を無責任に使ってしまうようになった」(同書;p22-23)。
そして、姜が言うように「対テロ戦争の一環としてのアフガニスタン戦争やイラク戦争には、相手に対する公式の宣戦布告がなされていません。その意味で「War」とはいえませんね」(同書;p53)。
これまでの戦争と全く異なる戦争に我々は直面し、戦争とはいえぬ戦争に自衛隊は参加している。そして、『麦の穂をゆらす風』に描かれた兄弟のように、イランやアフガンニスタンでは内戦が激しくなっている。
こうした時代において、我々はどうすればいいのか。
それは『パッチギ! LOVE&PEACE』が主張するように、逃げることしかできない。
ひたすら「主体的に逃げる」ことである。テロとの戦いに少しでも関わる事柄から積極的に逃げることである。少なくても「テロ」という言葉を無自覚に使わず、「テロに対する警戒」という言葉、その延長上にある「自己責任」や「普通の国」という言葉に騙されないことである。
2007年12月25日火曜日
東京慕情と希望の国のエクスダス
日曜日の朝は、近くの喫茶店でロイヤルミルクティーを飲みながら東京新聞に連載されている「東京慕情」を読むのが楽しみだったが、その連載も12月23日のNo.64で最終回となった。
最終回で著者は「そのころ(昭和30年代)人々の暮らしは貧しく、生きるために誰もが必死に汗を流し、時には涙を流した。それでも心にはささやかな希望があった。貧しさの向こうに豊かさへの夢が見えていたからである。子供はいつも群れ集い、広場では野球に熱中し、紙芝居の拍子木が鳴ると、おじさんをわっと取り囲んだものである。いたわり合い、信頼感、親や先生への感謝の思い・・・そんな言葉が日々の暮らしに当たり前のように生きていた時代であった。そんな時代がいつからねじ曲がり、日本はなぜ、ここまで荒廃したのか」と記す。
30年代と比べて、全ての面で日本が荒廃したとは思えないが、もし荒廃しているとすれば、その責任は30年代に「広場では野球に熱中していた」子どもたち、すなわち我々世代にあるといえる。我々と我々の兄貴分が「そんな社会」を作ってきたのである。そして、この記事を読んだ時に村上龍の『希望の国のエクソダス』を思い出した。
『希望の国のエクソダス』(2002;文芸春秋刊)は、中学生の一団が現代日本の中で反乱を起こし、北海道に新しい「希望の国」をつくる話である。反乱を起こした中学生の代表はこう演説する「生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けている。・・・・・学校では、どういう人間になればいいのかがわからなくなるばかりで、勉強しろ、いい高校に、いい大学に、いい会社の、いい職業に、ってバカみたいにそればっかり。幼稚園、小学校、中学校と進むうちに、いい学校に行っても、いい会社に行っても、それほどいいことがあるわけじゃないってことがよほどのバカじゃない限り、わかってくるわけで、それじゃその他にどういう選択肢があるかということは一切誰も教えてくれない」
我々と先輩たちは、こんな社会をつくってきたのだ。我々は、自分の子供にさえ、将来への夢を語ることも、希望を示すこともできない。「東京慕情」の著者が何気なく書いているように、我々の子ども時代には「貧しさの向こうに豊かさへの夢が見えていた」。
しかし、夢に見た豊かな生活が実現すると、その先の物語を創ることをしなかった。豊かさはバブル時代に飽和点に達して崩壊する。その後、我々はそれまでの生活水準を維持することに必死になり、その後社会に出てきた若者たちを仲間に迎える余裕すら無くなった。
そのため、彼らはフリーターや契約社員にならざるを得なくなり、格差社会が出来上がる。その意味で、格差社会は我々世代が既得権益にしがみついた結果ともいえる。
若い人に希望も選択肢も与えられない社会を作ったのは、まさに、30年代に豊かな生活を夢見て、それを必死に実現した我々と先輩たちなのである。
2007年11月20日火曜日
あの夏、いちばん静かな海
かなり長い間、ブログを更新していなかった。
この2ヶ月間、ほとんど休日らしい休日はなく。毎日のように仕事に追われていた。
仕事は楽しくやりたい。仕事に限らず全てのことを、できるだけ楽しくやりたい、というのがモットーだが、この2ヶ月間はかなり苦しかった。
久しぶりにストレス性の痛風発作にも襲われ、早朝覚醒型の睡眠障害にも悩んだ。
そのストレスの原因は、たった1つの仕事。30年ちかく編集の仕事をしてきたが、今までに経験したことのないクライアントの対応に、仕事を途中で断ろうかと、何度も思った。
しかしその度に、持ち前の負けず嫌いが頭を持ち上げ「受けた仕事は何があってもやりぬく、ここで逃げたら負けだ」、「今まで、できなかった仕事はない」と自分を鼓舞した。
弱気になったり、強気になったり。
そしてやっと、その仕事も終わった。校了の瞬間には達成感も充実感もなかったが、解放感はあった。そして思った。この仕事もいつか楽しい思い出になることだろうと。
辛い時に、必ず見たくなる映画がある。北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」である。
「その男、凶暴につき」でデビューした彼の3作目。1991年の公開である。
主人公は若い男女。恋人同士である。
しかし、2人の間に全く言葉は存在しない。2人とも聴覚障害者なのだ。
休日になると、男はサーフィン、女は波間に見え隠れする男の姿を浜辺にすわって見つめる。2人の間に言葉はないが、久石譲のメロディーが見事に2人の感情を表現する。
そして、突然、男が死ぬ。死ぬというより消える。
少し遅れて浜辺に行った彼女が見たものは、波打ち際で揺れるボードだけだった。静かすぎる海で、男は突然消えてしまうのである。そこには、苦しさも、寂しさも、悲しさもない。
ここから、この映画の凄さが始まる。それは女の回想シーン。
それまで、女は男が波に乗る姿を浜辺に座って、ただ眺めているだけだった。
しかし回想シーンでは、砂浜に置かれたボードの上で波乗りの真似をして、ふざけたり、はしゃいだり、いかにも溌剌と楽しげに描かれているのである。
この回想シーンをどう考えるか。私は「彼女の心の中の真実」だと思った。
記憶の断片は時間と共にそぎ落とされ、時には新たな物語を紡ぎだす。そして人は、自ら創り出した物語を頼りに生きていくこともある。
だからこそ、北野武はこの映画のタイトルを最後の最後にもってきた。
エンディングの波の音の中に「あの夏、いちばん静かな海」という文字が現れた時、現実と記憶が交錯し、明日が始まる。
2007年9月9日日曜日
麦の穂をゆらす風
末の息子と「かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール」で行われた『林英哲&山下洋輔DUOコンサート』を聴きに行った。
山下洋輔が65歳、林英哲が55歳とは思えない、エネルギッシュで迫力ある演奏だった。特に第二部のボレロが素晴らしかった。
第一部は、それぞれのソロだった。出張の疲れもあって山下洋輔の演奏時には眠ってしまったが、太鼓の音には、身体の一つ一つの細胞が揺り動かされて覚醒していく心地よさがあった。
私が2人のDUOを初めて聞いたのは1988年のこと。20年前に佐渡島で行われた第1回目の国際芸術祭「アース・セレブレーション」だった。その時は、今年25歳になる長男(当時5歳)を連れて行った。
コンサートの後、息子と焼き肉を食べた。彼は最近、映画に凝っているらしく。KEN LOACH監督の『麦の穂をゆらす風』が良いと言った。早速、DVDを借りてきて見た。
『麦の穂をゆらす風』は、20世紀初頭のアイルランド独立戦争とその後の内戦が背景となっている。戦いの非情さに心を痛めながらも祖国の自由を願う青年と政治的価値観の違いからその青年を銃殺せざるを得ない青年の兄。そこには、大国の侵略と横暴に翻弄される人々の、どうしようもない悲しさが描かれていた。
配給は、李鳳宇のシネカノン。彼はこの映画に祖国を見たのかもしれない。
その映画のスポット広告コピーがなかなかいい。
愛する者を
奪われる悲しみを
なぜ人間は
繰り返すのだろうか
2007年9月7日金曜日
台風サバイバル
9月6日の夕方。ANA041便で伊丹に行こうと羽田に着くと、台風の影響で欠航。急遽、東京駅から新幹線で行くことにする。しかし、東京駅に着くと新幹線も動いていない。18:30なのに、17:25発の「のぞみ255」がまだホームに止まっていた。
一旦は諦めて、明日出直そうかと考えたが、もしかしたら動くかも、という何の根拠もない期待と台風の上陸が遅れると明日の午前中の新幹線も混乱する可能性が高いとの思いから、しばらく、のぞみ255の車中で待つことにした。
そこでまず、駅弁とお茶を買ってきて夕食。その後、遅れている原稿の校正を始めた。新幹線の車内で仕事をするのも、なかなか乙なもの。ミュージックチャンネルで音楽を聴きながら、車内販売のコーヒーを飲む。その上、東京駅には公衆無線LANがあるのでインターネットは使い放題。かなり快適だ。
そのうち、このままこの列車が走りだすまで、ここで仕事をしよう、という気持ちになった。朝まで動かなくてもいづれは動く。動く時はこの列車が最初だ。
21:30★以前状況は変わらず。車内アナウンスは30~60分に一回程度。気象庁発表の台風の位置を伝え、最後に「運行の見込みは立っておりません」という。現在台風は、石廊崎の南70kmにあって、時速15kmで北北東に向かっているらしい。いずれにしても東海地方に向かっており、それを考えると、当分列車は動かない。そこで、ペットボトルの水2本、煙草2箱、「SOYJOY」を1本、買ってきた。
22:20★2杯目のホットコーヒー。少し疲れたので砂糖をたくさん入れて飲む。北へ向かう新幹線は予定通り次々と発車している。だんだんと風雨が強くなり、雨音が車窓に響く。ホームも横殴りの雨でぬれ、人も少なくなってきた。諦めたのだろうか、乗客が一人また一人と帰っていく。車内は静かである。少し寂しい。
ミュージックチャンネルでは、24年ぶりに活動を再開して『In the prime』というアルバムをだした女性デュオ「あみん」の特集をしている。彼女たちが活躍したのは1980年代の前半。代表作「待つわ」は今でも時々耳にする。雨の車中で聞くと、当時が懐かしく思い出される。ちょうど私が会社を立ち上げた頃である。In the prime=まだまだこれから、といった気分だ。
22:40★社内の電光掲示板に表示される台風情報を読んでいたら、「運転が再開されるもよう。詳しいことが分かり次第またお伝えします」と、車内アナウンスがあった。にわかに社内がざわざわしてきて、どこで休んでいたのか、たくさんの乗客が乗ってきた。
22:50★台風は依然石廊崎の南60kmにあって時速15kmで神奈川県を目指しているらしいが、「10分後に出発する」という車内アナウンス。そのアナウンスがなかなかチャーミング。「風の合間をみて、前へ前へと進んでいきます」。「前へ、前へ」という言葉が実に頼もしく、ウキウキと響く。
22:57★2~3分後に、まず品川を目指して出発すると車内アナウンス。
23:00★のぞみ255は、滑るように東京駅を出発。夜行列車「のぞみ」に乗るのも乙なものだ。
23:19★やっと走り出したと思ったら。急停車。新横浜~小田原間で送電がストップしたらしい。車内にざわめきが起こる。なかなか、一筋縄ではいかない。そう思っていたら、23:22にまた走り出す。一安心。
23:33★小田原で停車。「風が強くなってきたので、停車して、しばらく様子をみる」という車内放送。台風に向かっているのだから、当たり前といえば当たり前だ。後続の下り列車も隣の線路に停車。
23:41★台風は石廊崎の南40km。自転車並みのゆっくりしたスピード、こちらに向かってくる。
23:47★小田原駅を発車。スピードが徐々に速くなる。「前へ、前へだ」。
0:15★順調に走っている。背中が痛くなって来たので校正仕事はやめにして、車窓の外を眺める。相変わらず強い雨が降っている。
0:23★3杯目のホットコーヒー。検札に来ないことに気付く。これならグリーン車は乗り放題。
0:40★ミュージックチャンネルをNHKラジオに変えると「ラジオ深夜便」が流れてきた。この放送は非常に懐かしい。数年前に入院していたとき、眠れない夜は、いつもこの放送を聞いていた。この放送でいつも不思議に思うことは、世界の主要都市の天気予報を伝えること。ロンドンやパリにいる子供や孫に思いを巡らす老人がいるのかもしれない。しかし、新幹線の中で「ラジオ深夜便」を聞くことになるとは思わなかった。
0:51★豊橋駅を通過。風雨はおさまった。どうやら台風の影響下を脱したようだ。列車は順調に「前へ、前へ」と進んでいる。
1:00★台風は伊東市に接近。ここまで来ると、台風情報も気にならない。
1:09★名古屋駅着。
1:45★京都駅着。
1:59★★のぞみ255は、やっと新大阪駅のホームに滑り込んだ。
2:20★ホテル着。会社を出てから約11時間。長かったけど楽しかった。おやすみなさい。
2007年9月4日火曜日
出雲大社の前には朝鮮半島があった
取材で出雲に行ったので、長い間訪ねたかった出雲大社に行く。
写真をみるとうっそうとした山の中に建つようにみえるが、実際は日本海に向かって建っていた。出雲大社の正面には日本海。その先には朝鮮半島。まさに、ここは大陸に向けて開かれた玄関。かつてここに朝鮮半島から、多くの船が通ってきたのではないか。そんな空想を喚起する。実際、出雲大社のそばの海岸には、ハングル文字が書かれた漂流物がたくさん流れ着くという。
瀬島龍三が死んだ。95歳だった。
大本営参謀本部にいた彼の作戦で、多くの日本人とアジア人が死んだ。彼は1995年に「太平洋戦争は自存・自衛の戦いだったと信じている」と語っている。まさに、太平洋戦争の責任者の一人が全く責任を取らずに、何も語らずに、死んだ。合掌。
2007年9月3日月曜日
『パッチギ!的』を読んで
映画『パッチギ!』のプロデューサーである李鳳宇の著作『パッチギ!的』(岩波書店刊)を読んだ。その中に『パッチギ!』のテレビでの宣伝スポットにまつわるエピソードが載っていた。
宣伝スポットは、事前にテレビ局の考査を通す必要がある。その考査も無事通過し、後は流すだけの段階になって「あのスポットは流せない」という事態に遭遇する。その理由は、「もし結婚したら朝鮮人になれる?」というキョンジャが康介に問うセリフを、局の役員が問題にしたためだった。このスポットを流せば「ある勢力から確実に嫌がれせを受ける」とその役員は恐れたという。こうした自主規制は「イムジン河」を日本の音楽界から葬った姿勢と同じで、著者は「これはハッキリ言えば戦前の検閲に近い暴挙だし、一種の妨害だろう」と記している。
「もし結婚したら朝鮮人になれる?」。同じ言葉で問われたことがある。今から35年前。戒厳令下のソウルでのことだ。当時大学2年だった私は、ソウルの延世大学に短期留学していた。その時知り合った19歳の韓国人女性に恋をしていた。ちょうど『パッチギ!』が描いた、まさにあの時代。当時の日本人の韓国・朝鮮人に対する偏見と差別は、今とは比較にならないくらい大きかった。私が大学で朝鮮の思想史を勉強したい、と高校の教師に言うと、「朝鮮に固有の思想があるのか」と教師が問う時代だった。
「もし結婚したら朝鮮人になれる?」。彼女は「韓国人になれる」とは聞かなかった。彼女は国名は大韓民国だが私たちは朝鮮民族だ、とよく言っていた。つまり、単に国籍を問うていたのではなかった。その時、私は「朝鮮人になれるさ」とは答えられなかった。
李鳳宇は記す。「この映画は民族の壁を乗り越えて、愛情を育もうと訴えているし、強いて言えばこのセリフを聞かせ、それを観客にもち帰ってもらうための映画なんだ」と。
私は35年前に同じ言葉を聞いて、その言葉を日本にもち帰ったつもりだった。しかし、ずっと長いこと、忘れていた。そして、『パッチギ!』のラストで同じ言葉を聞いた時、当時の記憶を鮮明に思い出した。そして、自分に問うた「お前は、本当に彼女の言葉をもち帰ったのか?」と。
宣伝スポットは、事前にテレビ局の考査を通す必要がある。その考査も無事通過し、後は流すだけの段階になって「あのスポットは流せない」という事態に遭遇する。その理由は、「もし結婚したら朝鮮人になれる?」というキョンジャが康介に問うセリフを、局の役員が問題にしたためだった。このスポットを流せば「ある勢力から確実に嫌がれせを受ける」とその役員は恐れたという。こうした自主規制は「イムジン河」を日本の音楽界から葬った姿勢と同じで、著者は「これはハッキリ言えば戦前の検閲に近い暴挙だし、一種の妨害だろう」と記している。
「もし結婚したら朝鮮人になれる?」。同じ言葉で問われたことがある。今から35年前。戒厳令下のソウルでのことだ。当時大学2年だった私は、ソウルの延世大学に短期留学していた。その時知り合った19歳の韓国人女性に恋をしていた。ちょうど『パッチギ!』が描いた、まさにあの時代。当時の日本人の韓国・朝鮮人に対する偏見と差別は、今とは比較にならないくらい大きかった。私が大学で朝鮮の思想史を勉強したい、と高校の教師に言うと、「朝鮮に固有の思想があるのか」と教師が問う時代だった。
「もし結婚したら朝鮮人になれる?」。彼女は「韓国人になれる」とは聞かなかった。彼女は国名は大韓民国だが私たちは朝鮮民族だ、とよく言っていた。つまり、単に国籍を問うていたのではなかった。その時、私は「朝鮮人になれるさ」とは答えられなかった。
李鳳宇は記す。「この映画は民族の壁を乗り越えて、愛情を育もうと訴えているし、強いて言えばこのセリフを聞かせ、それを観客にもち帰ってもらうための映画なんだ」と。
私は35年前に同じ言葉を聞いて、その言葉を日本にもち帰ったつもりだった。しかし、ずっと長いこと、忘れていた。そして、『パッチギ!』のラストで同じ言葉を聞いた時、当時の記憶を鮮明に思い出した。そして、自分に問うた「お前は、本当に彼女の言葉をもち帰ったのか?」と。
2007年8月14日火曜日
番外編■医療関連News
■ムコ多糖症VI型治療薬の国内承認申請が行われる。
アンジェス(株)は、8月10日、ムコ多糖症VI型治療薬「Naglazyme」(一般名:galsulfase)の国内での承認申請を行った。
欧米で有効だと証明されているのに日本では未承認の薬は沢山ある。このムコ多糖症の治療薬もそうだ。ムコ多糖症は難病で日本には約300人の患者がいるといわれる。湘南乃風の若旦那がキャンペーンを張って知られるようになった疾患。厚労省の速やかな対応が求められる。
▼湘南乃風の若旦那とムコ多糖症
◆◆その他の医療関係News
■75歳以上の新医療制度、200万人が保険料負担
■医療事故委の議事録開示を拒む日本医大
■社会保険連系列病院、医療事故「謝罪マニュアル」を導入
■厚労省が検討している医療版「事故調」。届け出義務化、怠れば罰則。
■カンボジアのHIV/エイズ状況
■スピリチュアル・ブーム
2007年8月11日土曜日
参院選の結果に思う
東京新聞の「筆洗」(8月5日)に興味深いデータが載っていた。
先の参院選挙で当選した人の55.7%は憲法九条を変えることに反対している、というデータである。
そもそも、参院選の争点の一つは憲法を変えるか否かにあった。しかし選挙間際になって、年金や政治とカネの問題、閣僚の不始末が争点として急浮上してきた。結果は、自民党の惨敗、民主党の一人勝ちだった。しかし、投票の時に、憲法問題を意識して投票した人は非常に少なかったのではないだろうか。なぜなら、憲法を変えることにはっきりと反対している、護憲を主張する党が議席を減らしているからである。
一方、「憲法九条は守りたい」と考えていても「革新政党には票を投じたくない」と考えた人も多かっただろう。しかし、もはやそんな甘い考えでは、何事も変わらないのである
憲法問題については、さまざまな人が、さまざまな意見を述べているが、その中で卓越した発言をしているのが作家の高村薫である。高村は「憲法は国民が主権者であることを保証していると同時に、ときどきの政権が自らの政策の正当性の根拠とするものである。そのため、首相や閣僚は憲法の遵守を義務づけられているのだが、その彼らが率先して憲法改正を叫ぶのは、明らかにおかしい。ましてや政治課題にしたり、選挙の争点ににしたりする性格のものではないのは、言うまでもない」、「政権与党として尊重すべきは、国民が六十年も憲法を享受してきたという事実のほうだろう」と指摘し、「憲法は私たちとともにあり、時代や社会とともにあるのだから、私たちが欲すれば、変えることはできる。しかし私たちは、いま憲法を変える理由があるか」と問う。そして「安部政権は、美しい国を連呼するだけで、国民のために憲法改正を急ぐべきことの合理的な説明をしていない。そういう政権に、そもそも憲法をいじる資格はないと、私自身シンプルに考えている」と述べている(高村薫;社会時評,東京新聞,5月15日,2007)。
まさに高村が指摘するように、私たち一人一人が「今、憲法を変える理由があるか?」よく考えることが大切なのである。
参院選の結果をみて、もう一つ感じたことは「まだ日本人は本気で怒っていない。もしかしたら、怒りを忘れてしまったのかもしれない」ということだった。
今、私たちが考えるべきことは憲法問題だけではない。社会の格差は確実にひろがっている。日本は年間3万人以上の人が自らの命を絶つ社会である。生活保護を一方的に打ち切られて餓死する50代もいる。公園にはホームレスがあふれ、ホームレスの年齢は年々低年齢化している。そして、何事も「自己責任」の一言で切り捨てられる。人々は生贄を求めるようにヒステリックにバッシングを繰り返す。
憲法改正の先にあるものは、日本が集団的自衛権を行使できる国になることである。そして、格差社会が完成すれば富のほとんどは一握りの人々に集中する。再び、資本が一か所に集中するのである。その時何が起こるか、それは過去の歴史が教えてくれる。
いま求められているのは、過去の歴史に対する確かな知識と将来に対する想像力である。
大山鳴動して「爪切り」一つ
私は「身体障害者手帳」を持っている。身体障害程度等級は1級。つまり、最も障害レベルが高いと認められているのだ。障害名は、頻脈・徐脈症候群による心臓機能障害。昨年の夏にペースメーカーを入れた時から身体障害者なのである。
ペースメーカーを入れる前は、日常生活が何かと制約されて、不便になると思っていたが、実際に入れてみると、不自由さはほとんど感じない。私の場合、電子レンジや携帯電話の影響を受けたことがないので、普通に使っている。ただ、IHクッキングの器機に近づいたとき、なにやら心臓の動きに異常を感じたので、それ以来IHクッキングには近づかないようにしている。オール電化生活はできないかもしれない。
ペースメーカーを入れたことで、最も不愉快なのは、飛行機で移動するときである。地方都市での取材が多い私は頻繁に飛行機を利用する。「身体障害者手帳」を持っていると、飛行機や電車の運賃が割引になるので、その点は良いのだが、不愉快なのは空港の出発ゲートで行われるハイジャック防止の検査時である。
金属探知機のゲートをくぐると、ペースメーカーが影響を受けるといわれているので、ゲートの横を通って、係員のボディチェックを受けるのだが、それが極めて屈辱的なのである。ゲートが反応してボディチェックを受ける人よりかなり厳しく検査される。時間もかなりかかる。また、ゲートを普通に通過していく人の視線も気になる。
私は男だからまだいいが、女性の場合はかなり嫌な体験だと思う。せめて、別室やカーテンで仕切られたスペースで検査を受けられるようにならないものだろうか、といつも思う。高齢化社会の進展とともに、ペースメーカーを必要とする人は急激に増えている。そしてその多くが、元気に生活している。つまり、飛行機に乗る多くの高齢者が金属探知機のゲートをくぐれないということを、警備会社は配慮すべきではないだろうか。そして、ボディチエックは、受ける人にとってかなり屈辱的であることを係員は認識して、それなりに対応すべきだと思う。少なくても、凶器を隠し持っている可能性がある、それを探すのだ、という態度だけは慎んでもらいたい。
先日、佐賀空港では手荷物検査でも嫌な思いをした。仕事がら私のカバンには、コンピュータ、IC録音機数台、カメラなど、取材機器が詰まっている。普通はコンピュータを別に検査してもらえば問題なく1回で通過できるのだが、その時は違った。佐賀空港の女性のセキュリティー検査官は、カバンの中の物を一つ一つ開けて検査を始め、何回もレントゲンを通して調べるのである。
対応は慇懃無礼で、あまりにシツコイので、短気な私は「みんな開けて調べていいから、終わったら持ってきてくれ」といって待合室の席で待っていた。しばらくすると女性の係官が来て「ライターが二つあるので一つは破棄してください、それと、これは機内で出さないでください」といって、小さな光る金属を手に載せていた。なんとそれは「爪切り」だったのである。冒頭の写真の「爪切り」だが、一緒に入れていたハサミの方がまだハイジャックには役立ちそうである。
時間をかけて、何回も調べて、やっと係員が見つけたのは小さな「爪切り」だったのである。爪切りでハイジャックができるとは思わないが、それより驚いたのは係員の「機内では出さないでください」という言葉だった。そこに、どのような意味があるのだろうか。機内で出すと危険だと思うなら、機内に持ち込ませなければいい。機内への持ち込みを許可するなら、危険物と認識していないことになり、なぜ「機内で出さないでください」ということになるのか。時間をかけて何を探したかったのか。そもそも、何のためのセキュリティチェックなのか。
もう二度と佐賀空港は利用しない。
最近読んで面白かった本
最近読んだ本から、お勧め本。
『悪人』 吉田修一著 朝日新聞刊
最近読んだ本の中では、特に面白かった1冊。新聞連載小説だが、単行本にするにあたり、かなり手を入れているという。限られた文字数で、毎日毎日書く。多分、著者は1日に1回分の原稿を書いていたのではないだろうか。そう思えるほど、視点がくるくる変わる。一つの事件をさまざまな人の視点で捉え、それが猛スピードで展開する。最後は少し疲れが感じられるが、それでも一気に読者をゴールに連れ込む。読み終わってもなお、読者の想像力は止まらない。久しぶりに面白い小説だった。
『押入れのちよ』荻原浩著 新潮社刊
九つの短編集。表題の「押入れのちよ」より「お母さまのロシアのスープ」がいい。寝る前に1編ずつ読んで、物語について考えていると、眠くなる。かなり上質な睡眠を約束してくれる小説。
『レストア』太田忠司著 光文社刊
主人公は心を病んだオルゴール修復師。謎解きより、主人公の心が癒されていくプロセスがいい。主人公の周囲の女性たちが、みんな魅力的である。『細雪』に登場する姉妹の三女を彷彿とさせる
『医療の限界』小松秀樹著 新潮社新書
著者は虎の門病院泌尿器科部長。2002年の12月におこった、慈恵医大青戸病院における前立腺がんに対する腹腔鏡手術で患者が死亡した事件についての著作『慈恵医大青戸病院事件』(日本経済評論社)や『医療崩壊-立ち去り型サボタージュ』(朝日新聞刊)がある。
岡井崇著の小説『ノーフォルト』(早川書房刊)と一緒に読むと、今、医療現場で何が起こっているのか、医療の限界とは何か、がよく分かる。今、患者と医師の関係を再構築する必要があるが、そのためには患者が「医学の限界」、「治療の限界」を知ることも非常に大切である。
『タバコ有害論に意義あり!』名取春彦・上杉正幸著 洋泉社新書;著者の名取氏は癌研究会附属病院に勤務したことのある医師。第2章「タバコを吸うとガンになるという常識は意図的につくられた」は、面白い。スモーカーの肺は真っ黒と信じている人もいると思うが、それも嘘だという。
『悪人』と違う意味で非常に面白かったもう一冊は、原宏一著の『床下仙人』(祥伝社刊)。特に、仕事一筋、仕事依存症の中年サラリーマンにお勧めの一冊。人生の価値観を考え直すきっかけになること請け合い。
その他、これも面白かった。
『細菌感染-作られたカルテ-』霧村悠康著 新風舎文庫
『看守眼』横山秀夫著 実業之日本社刊
『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』西村博之著 扶桑社新書
『となりのクレーマー』関根眞一著 中公新書
『1冊まるごと佐藤可士和』 Pen編集部編 阪急コミュニケーションズ
『小沢昭一座談』①、② 晶文社刊;40年前の「内外タイムズ」に掲載された対談をまとめたもの。ちくま文庫の『小沢大写真館』も面白い。
2007年7月8日日曜日
場の空気を読むことの辛さ
忙しくて、しばらくブログが書けなかった。「書けなかった」というより「書きたいことがなかった」、というほうが正しい。仕事に追われ、仕事に没頭するのは、それなりに楽しく充実感もある。しかしその間、私は何も感じず、何も考えていなかったに等しい。だから、ブログのテーマさえ思いつかなかったのである。仕事が一段落して、やっと、ブログを書こうと思ったのである。
編集ディレクターとライターを兼ねている私は、この1ヶ月間、取材原稿を書きながらディレクターとしてクライアントやスタッフとの打ち合わせを毎日のように行った。普段はライターに徹している時間の方が圧倒的に長いが、ここ数ヶ月は、新規プロジェクトが同時にいくつも進行しているため、いつも以上に打ち合わせ時間が多かった。
そこで感じたことは、巧みに「場の空気を読む」若いヤツが多いことである。彼らにとって、最も大切なことは「自分の意見や考えを主張」することではなく、その場の空気を読み取り、自分に期待されている役割をこなすこと、のようである。初め、そうした言動が非常にスマートに感じ、たまに、場の空気を混乱させる発言があると、イライラした。
しかし、よく考えてみると、期待されていることをこなすだけでは、そこには個性も創造性も存在しない。かつて私たちは、いかに周りと違う発言をするか、みんなと違う行動をするか、ということを大切にしていた。今から、30年以上も前の話である。そして、周りと異なることは非凡や強さを意味しており、人と同じに見られることは最大の侮辱だった。しかし今は「場の空気を読めないヤツ」は軽蔑される。確かに、コンセンサスを無視した発言は周囲を混乱させるし、プロジェクトはスムーズに進行せず、無駄と思える時間と作業が新たに必要となる場合もある。しかし、それらは本当に無駄なことなのだろうか。
周囲と異なる意見を主張することは、いつの時代でも勇気がいる。特に今は「少数派」は「負け組み」と同じ意味をもつ。だからこそ、若いヤツは必死に場の空気を読み、「主流派」になろうとする。それはそれで良い面もある。みんなで決めたコンセンサスを守るのだから、プロジェクトはスムーズに進行する。しかし、みんなで決めたコンセンサスが、プロジェクトの進行と共に、間違っているのでは、と疑問が生じる場合がある。しかし大概、そうした間違いに気づくのはほんの数人で、ほとんどのスタッフは疑いもなく作業を進める。その時、場の空気を知りながらも異なる意見を主張できるか。それが大切なのかもしれない。特に世論が一定の方向に動き出した時、そこに生じた疑問や意見を主張できるか否かは、別の意味で大きな意味をもつ。
誰からも命令されたわけでもないのに、自ら進んで、自分の意見や考え方を自由に発言することを放棄し、場の空気を読むことにエネルギーを費やす。それはそれで、決して楽なことではない。時として、自由に自分の意見や考えを主張する方が楽な場合もある。しかし、今時の若いヤツは人と違うことを極端に恐れ、場の空気を読むこと、その空気に自分を合わせることにエネルギーを費やす。しかしそこには、やはり無理がある。そして、周囲に合わせることに疲れきった時に「空気を読む。周りに合わせる」という呪縛から開放されるならまだいい。若者のなかには、心底力尽きて、自分さえも見失う人が少なくない。
2007年6月10日日曜日
全く台詞のない映画 裸の島
先週、久しぶりに息子と2人で外食し、鉄板焼きを食べに行った。その時、井筒和幸監督の最新作『パッチギ LOVE&PEASE』の話になった。2005年に公開された『パッチギ 世界は愛で変えられる』は、劇場に観に行った。そこに描かれた時代とエピソードは、私自身の青春時代と重なった。パッチギは1960年代後半の京都が舞台だが、当時、私は韓国のソウルで2週間過ごした。高校3年になる直前の春休みのことで、それ以来、何回となくソウルを訪れ、大学では朝鮮思想史を学んだ。京都とソウル、舞台は異なっているが当時の日本人と韓国人(朝鮮人)の間にはパッチギで描かれたような空気が流れていた。そこで、さっそくDVDを買ってきて息子と見た記憶がある。今回、彼が観た『パッチギ LOVE&PEASE』は、いわばパッチギ-2にあたる。私はまだ観ていなかったので、感想を聞くと、彼は「最初のパッチギのほうが良かった」という。理由を聞くと「1は映画そのものに主張があるけど、2は主張を登場人物の言葉で語らせている」、という意味のことを言った。つまり、『映画は映像で何かを表現する』ものであり、台詞で表現するのは稚拙な手法である、というのだ。なかなか鋭い批評だと感心した時、私は印象深い映画のことを思い出していた。
『映画は映像を以て語らしめよ』という信念をもっていた映画監督の新藤兼人は、一言も台詞のない映画をつくっている。モスクワ映画祭のグランプリを初めとして数々の国際的な映画賞を受賞した『裸の島』である。私がこの映画を初めて観たのは、今から20年ほど前のことである。たまたま千駄ヶ谷駅の片隅でビデオの安売りを行っていた。確か、3本で1000円だった。そのうちの1本が『裸の島』であった。
舞台は瀬戸内海の孤島。周囲約600mぐらいの小さな島に夫婦と2人の子供が生活している。夫婦は小作農として孤島の急斜面を耕し、そこで夏はサツマイモ、冬は小麦を栽培している。孤島には水がないため、近くの大きな島から、肥桶に水を入れて伝馬船で運ぶ。島に着いた夫婦は、肥桶を天秤棒で担ぎ、急斜面を登って畑に水をまく。夫婦はこの過酷で単純な労働を1日に何回も繰り返す。映画はその様を丹念に映していく。登場人物は全くしゃべらない。つまり台詞は全くなく、笑い声と自然の音、そして林光の音楽だけがある。
当時の私は、この映画の背景を全く知らなかったが、不思議に感動して、その後も何回か観た。何回目かに観たとき、あることに気がついた。それは、真夏の炎天下に畑の作物に水をやることはありえないという事実だ。真夏、植物に水をやるのは早朝か夕方に限られる。作物とて同じであり、農家出身の新藤兼人が知らないわけがない。しかし、映画では乾ききった土に水を注ぎ、注がれた水はたちまち畑に吸い込まれていく。その様が繰り返し描かれる。水を運ぶ時にしなる天秤棒が労働を象徴しているなら、乾いた土地に水を繰り返し注ぐ様は何を象徴しているのだろうか。ずっと考えていた。
すると最近、日経新聞のコラム(5.27;2007朝刊)に監督自らが、「乾いた土に水を注ぐ。たちまち土は水を吸い込む。果てしなく水を注ぐ。乾いた土とは私たちの心である。心に水をかけるのだ。水はわたしたちの心の水である」、と書いていた。当時の新藤兼人は映画『第五福竜丸』の興行的失敗から、独立プロの解散を覚悟していた時期で、商業主義でない独立プロ最後の作品として撮ったのがこの『裸の島』だったのである。
そうした状況を考えると、「心に水をかけるのだ。水はわたしたちの心の水である」という言葉の意味が少しは理解できる。しかし、こうした背景を考慮しなくても、撮影陣の事情など何も知らなくても、この映画は観る人の、その時々の気持ちに、そっと寄り添う力をもっている。
しなる天秤棒が過酷な労働を象徴し、夫婦の過酷な労働が貧しい小作農を象徴していたとしても、決して「貧しさや辛さ」を語る映画ではない。
ましてや人生に対する教訓を語る映画でもない。ただ、一遍のポエムのように観る人の乾いた心を潤すのである。
『裸の島』の詳細はhttp://www.sadanari.com/eiga980705_14.html
2007年6月4日月曜日
梅宮龍彦編集長のボヤキ
久しぶりに、感情移入しながら一気に読み終えたコミックと出会った。安野モヨコ著『働きマン』である。舞台は週刊誌の編集部。主人公は編集者の松方弘子、28歳。単行本の1,2巻は主に彼女を中心として話が展開するが、私が感情移入したのは、主人公である彼女の仕事へのスタンスではない。編集部の雰囲気と45歳の編集長、梅宮龍彦のボヤキである。
20代後半、私は編集プロダクションでPR誌の編集をやっていた。当時は平凡出版(現マガジンハウス)の「アンアン」「ポパイ」「ブルータス」「オリーブ」といった雑誌が斬新なエディトリアルデザインで日本の若者文化を牽引する一方、構造主義を武器に文化そのものに切り込んでいったのが、企業の広報部が発行する「エナジー」「花椿」「談」「十条ニュース」「東電文化」といったPR誌であった。
企業の免罪符でもあった当時のPR誌は、販売部数をまったく考えないで制作できる稀有な媒体で、かなりマニアックなものも存在したが、いわゆる文化人と呼ばれる人たちに評価されれば、かなり自由に、やりたいことがやれた。そのため、PR誌の編集者達はかなり個性的で、一般企業では決して勤まらない知的アウトロー達、超我侭な人達が多く、その編集部はさながら梁山泊のようであった。
私のいた編集部も自己主張の強い酒飲みが多く、夕方5時を過ぎると、編集部全員が社の前にある飲み屋の座敷に移動し、そこで編集会議が始まる。編集会議といっても、その実態は自己主張大会、批判大会で、同僚が編集したページを批判し、同僚の書いた原稿にイチャモンをつけ、完膚なきまでに相手をやっつける。それが編集会議であった。
このように描写すると、批判しているように聞こえるかもしれないが、私は懐かしいのである。そして、『働きマン』を読んだ時に思い出したのが、この編集会議の様であった。振り返って考えると、当時はみんな過激で、批判は的確だった。相手の批判に怒鳴り返しながらも、どこかで納得している自分がいた。
そして30歳の時、自分で編集プロダクションを立ち上げた。当時は自信に満ち溢れていた。何の根拠もないのに、怖いものは何もなかった。何でもできると思っていた。いや、自分が一番だとさえ思っていた。だから、スタッフに対しても厳しく、決して妥協することはなかった。
あれから30年が過ぎた。そして今、『働きマン』に登場する梅宮龍彦編集長と同じように、ぼやいている。
「あー、いつから俺達は怒んなくなったんだろうな」
「確かに怒鳴られて 殴られて 上 憎んだりもしたけど 「怒る」ってのは そいつのこと引き受けるってことでもあるから 後から思うと ありがたいよな」
『やってみせ 言ってきかせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ』
「そこまで やんねーと 動かない奴は いらねんだよ!!」・・・・と。
しかし一方で、主人公の松方弘子のように「その時代の勢いや 書いた人のエネルギーや力が」伝わるような仕事をしたい、と今でも思っている自分もいる。
2007年6月3日日曜日
圧倒的な力 グレゴリー・コルベールの世界
肝臓学会の取材でお台場に行ったので、時間をつくって、グレゴリー・コルベールの「Ashes and Snow」を見にノマディック美術館に行った。
コンテナをモザイク状に積み上げた現代アート風の外観とは異なり、美術館の内部は僧伽藍摩を髣髴とさせ、神秘的な雰囲気さえ醸し出していた。そこに、畳1畳分の大きさのセピア色の写真が並んでいる。その中の1枚、象の前足の手前に蹲る子供の僧侶の写真。私はこの写真に引き付けられた。それは、とてつもなく深く大きな慈悲に包まれて安らかに眠る姿に見え、忘れていた遠い昔の懐かしい感覚に包まれた。
しかし、一連の写真や映画を見ているうちに、次々に疑問が沸いてきた。どうやって撮影しているのか、カメラは何処にあるのか、この動物たちは動物使いにコントロールされているのか、実際はコンピュータ処理がされているのではないか、動物と人間が接しているように見えるけど、超望遠レンズで撮影しているので、実際は動物と人間の間に距離があるのではないか、とさまざまなことを考えた。
しかし、象の群れの中で踊る踊り子の姿や、水中で鯨や象と踊るダンサーの姿を見ているうちに、そんな疑問はどうでもよくなった。
考えることや疑問をもつことが馬鹿らしくなるほど、映像が圧倒的な力をもっていたのである。
人間と動物がそこにいる。お互いは無関心のようにみえるけど、何かが両者を包んでいる。何が両者を包んでいるのか。圧倒的な信頼感、圧倒的な慈悲、圧倒的なやさしさ、圧倒的な思いやり・・・・少なくても、僕が忘れていた懐かしい感覚が両者を包んでいた。
三度しかし、映像の中の人間はみんな目を閉じているのに、動物たちは目を見開いている。森の人、オランウータンは人間に興味を示す。ハイエナは踊り子を恐れる。一方、象や豹や鯨は人間の存在を気にしていない。映し出された人間は自然に身をゆだねる一方で、情熱的な舞踏が繰り広げられるシーンもある。・・・・これらは何を意味しているのか。たぶん、そこに意味を考えてはいけないのかもしれない。でも、制作者の意図を考えてしまう。
そして思った。人から「感激した、楽しかった、うれしい、すごいね」といわれたとき、「なぜ」、「何処に」と問う時がある。そこには、理由を言語化しないと感情を素直に受け入れられない自分がいる。理由なんかどうでも良い、何しろ「すごいぜ」と言い切れない自分がいる。たぶん、「言語化できない何かを全身で感じる」ことを忘れているのかもしれない。
最初に感じた「忘れていた懐かしい感覚」は遠い昔の記憶。たぶん、母親の胎内で感じていた絶対的な安らぎ、に違いない。
▼Ashes and Snow at the Nomadic Museum
2007年5月23日水曜日
懐かしさと美味しさの違い
大阪に行く時、飛行機にするか、新幹線にするか、迷うことが多い。しかし、結局は新幹線に決めることが多い。その理由は「駅弁」である。
旅行でも、出張でも、車窓から外を眺めながら食べる駅弁は格別である。食堂車で食事をするのも好きで、かつて新幹線に食堂車があった頃はよく利用していた。最近は、空弁も種類が増えて味もいいが、やはり駅弁にはかなわない。
今回の大阪出張では、崎陽軒の「シュウマイ弁当」を買った。
鎌倉育ちの私にとって、崎陽軒のシュウマイは、ヨコタカ(横浜の高島屋)の包み紙と同じようにハレのシンボルだった。崎陽軒のシュウマイは立派なご馳走で、醤油が入った陶器の瓢箪は立派な玩具だった。もちろん、45年以上も前の話で、まだ鎌倉に漁業と農業が残っており、別荘はあるがサラリーマンを対象とした分譲地など皆無の頃である。
当時の私は、鎌倉駅前にある喫茶店「扉」に行くのが楽しみだった。「扉」は鎌倉土産で知られる「ハトサブレー」を製造販売している店で、今でもレストラン「扉」として同じ場所で営業している。
ここで、ハンバーガーやホットドックを食べるのがご馳走で、私は特にホットドックが大好物だった。40歳になった頃、このハンバーガーやホットドックが昔の味のままで復活した。私と同じように、幼少時代を懐かしむ人たちが多いんだな、と思いながら、さっそく鎌倉まで食べに行った。懐かしい味であった。しかし美味しくはなかった。
崎陽軒のシュウマイ弁当を買うのは、懐かしさからだけではない。
確かに、弁当を開けたときに漂うシュウマイの香りは、幼少の時代のさまざまな思い出を想起させるが、それだけではない。
実に旨いのである。
このシュウマイ弁当が誕生したのは昭和29年のこと。
その後、彩り豊かで豪華な駅弁が増えるなかで、シュウマイ弁当は頑なに発売当時の素朴なイメージを53年間も守り続けているのである。
おかずの主役は、もちろんシュウマイ。中央に5つのシュウマイがドンと入っていて、その脇にカマボコ、竹の子の煮込み、マグロの照り焼き、そして数年前から卵焼きが加わった。その配置と色彩は、あまり美味しそうには見えないが、竹の子の煮付けとシュウマイを交互に食べると、実に旨いのである。
普通、シュウマイは蒸したてで、温かいから美味しい。しかし、このシュウマイ弁当に入っているシュウマイは、冷えていても十分旨いのである。その秘密は、豚肉やタマネギといった具にコクのあるホタテの貝柱を混ぜたところにある、と聞いたことがあるが、本当なのだろうか。
2007年5月20日日曜日
アライ・マサト氏のDrawingの世界
たまに、「この人には、僕に見えないものが見えている」、と感じる人に出会う時がある。特に、デザインや美術を仕事にしている人に多い。
イラストレーターのアライ・マサト氏もそんな一人だ。
彼は最近、『Line Drawing』という本を出版した。
サブタイトルは「右脳くんのドローイング」。
ドローイングについて彼は「簡単に言うと・・・消しゴムで修正できる鉛筆ではなく、細いペンを使い、対象をじっくり見て、ゆっくりと線画を描く。これをドローイングと呼んでいます」と記している(同書p.3)。
単なるドローイングではなく「右脳くん」という修飾語をつけている理由については、「例えば表紙のニンジンの絵ですが、これを野菜として(左脳的に)見るのではなく、複雑な形・滑らかな形・明るい部分・影の部分など、見たままの情報を用紙に写しとっていきます。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり描いていくと「右脳くん」が登場し、「頭で考える」のではなく「感じたまま表現」できるのです」・・・「そして、今までと違う何かがみえてきます」と記す(同書p.3)。
彼は本書で、作品を紹介するだけでなく、ドローイングの描き方を解説している。
むしろ、ドローイング技法を解説することが本書のテーマである。
私は彼の作品を20年ちかく楽しんできたが、描いているところをみたことはなかった。この本で、そのプロセスを初めて知った。
一般に、「頭で考えるな」、「感じたまま表現する」、「右脳を働かせて描く」といわれると、その技法は客観化・普遍化できないと思える。
しかし、彼は「右脳くんのドローイング」技法を、見事に客観的に解説しているのである。
つまり、極めて論理的で確かな技術の上に、彼の作品は成り立っているのである。
もちろん、技術だけではこの作品は生まれない。研ぎ澄まされた彼の左脳が処理した情報に右脳が命と時間を吹き込む。
そんな作品がアライ・マサト氏のドローイングであり、左脳で処理した情報を右脳がどう変換するかは、それぞれの感性に依存する。
例えば本書の中に、一枚の葉の上にのったセミの幼虫が、少しずつ影の濃淡や色調を変えて5カット描かれているページがある。
そのページで彼は「影を描くことの大切さ」を指摘し、「影の存在は大きい。影は影じゃなかった」と書いている(同書p.124-125)。
しかし、このページを開いた時、私は「早朝、刻々と日差しが変化する中で、幼虫が成虫に脱皮しようとしている姿だ。まさに生きている!」と感じた。
そこには、命の躍動と時間が見事に描かれている。
このページでアライ・マサト氏が言いたかったことは、影の濃淡や色調によって印象が異なること、である。しかし、結果的にこのページには幼虫の命と早朝の時間経過が表現されたのである。
このように本書を見ると、技法の解説箇所もすばらしい作品集になっている。
ブリキのおもちゃの描き方を解説したページからは、このおもちゃをじっと見つめている子供の興奮した眼差しさえ感じ、タンブラーからはリズムが聞こえてくる。
アライ・マサト氏の、「右脳くんのドローイング」は、眺める人の右脳を活性化させる。
私にも、彼に見えていたものが見えてくるかもしれない。
2007年5月19日土曜日
小腸を検査するカプセル内視鏡
先日、日本消化器内視鏡学会が東京で開催された。
その会場で見つけたのが、カプセル内視鏡である。
胃や大腸は胃カメラなどの内視鏡で検査することができるが、今まで、小腸を検査できる内視鏡はなかった。そのため、小腸に疾患があるか否かを直接確認することはできず、小腸からの出血は「原因不明の消化管出血」とされてきた。
しかし、カプセル内視鏡の登場で、小腸全域を直接観察できるようになる。
上の写真は、イスラエルに本社のあるギブン・イメージング製のカプセル内視鏡の実物大模型。長さ26ミリ、直径11ミリのカプセルに小型カメラや照明などを内蔵している。
このカプセルを飲み込むと、消化管の蠕動運動で移動しながら小腸内を撮影。
画像データはカプセル内のアンテナから送信され、胸と腹部につけた小型アンテナで受信して、腰に装着した専用装置に記録される。カプセルは便と共に排出される。
検査時間は約8時間で、検査中に病院にいる必要もなく、日常生活をしながら検査ができる。
胃カメラを飲み込む時のような苦痛はなく、もちろん喉の麻酔は必要ない。また、エックス線撮影の時に飲むバリウムなどの造影剤も必要ない。検査前に絶食するだけである。
このギブン・イメージング製のカプセル内視鏡は、4月に輸入販売承認を取得し(国内初)、5月末から販売を開始する予定である。
しかしまだ、保険診療では使えないため、当分の間、実費は患者の自己負担になる。
検査に特別な技術を必要としないため、欧米ではクリニックでもカプセル内視鏡が使われ、既に数十万人以上が検査を受けているといわれている。
日本のメーカーでは、オリンパスがカプセル内視鏡に力を入れている。
カプセル内視鏡は、主に原因不明の消化管出血の診断やCrohn病の診断として期待されているが、膨大な写真データを読む必要があるため、画像分析ソフトの開発が急務といわれている。
また、一部のマスコミで言われているように、胃カメラ(胃内視鏡)や大腸内視鏡の代わりとなるものではない。
■写真は一般的なカプセル剤との比較。
2007年5月15日火曜日
不足しているのは小児科医や産婦人科医だけではない
現在、小児科医や産婦人科医の不足がニュースになっているが、医局制度が変わるにつれて、特に地方の病院では、脳外科医の不足も問題となっている。
実際、私は仕事で地方の病院を取材する機会が多いが、医師の不足は非常に重要な問題となっている。 先日も友人の医者から悲鳴に近いメールが届いた。以下はその一部である(本人の許可を得て引用)。
・・・・・・・近隣の病院から消化器内科医が消え、3月初めより患者の受け入れがだんだん減って、当院に患者が集中するようになり、毎日の様に吐血、下血、黄疸、腸閉塞がきます。(先週は吐血の止血4名、下血2名、今日は吐血2名)。いったい医者はどこへ行ったのでしょうか。医者不足は小児科、産婦人科だけの問題ではありません・・・・・・・・・・・・・・・
彼が所属している病院は、地方の病院ではない。東京駅に電車で30分という都市にあるのだ。
本当に、医者は何処にいってしまったのだろうか。
■医師不足関連ニュース
自分の価値観と暮らしを愛するには
2007年5月14日。
今日、通称「国民投票法」が成立。
正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」。
その名称に「国民投票」の文言はない。
また、衆院イラク復興支援特別委員会は、この7月末で期限が切れるイラク復興支援特別措置法を2年間延長する同法改正案を可決した。
時代は、確実に、一定の方向に向けて動き出している。
日曜日の新聞に興味深いコラムが掲載されていた。
そのコラムを要約すると、以下のようになる。
現憲法は国家を否定しているため、戦後、日本人は国民共同体としての国家をまともに論じてこなかった。だから「国家をつくる」、「国家を守る」という発想は生まれてこなかった。国民は政府に要求すべきは要求し、同時に国家にどう役立っていくか、担うべき責務は何かを考えるべきである。そこで、現憲法の第3章「国民の権利・義務」は一度破棄して最初から書き直すべきである。
国家というのは日本人の価値観の塊であり、日本人の価値観そのもを取り戻すことが憲法改正である。
つまり、現憲法で否定された「国家=日本人の価値観の塊」を取り戻すことが憲法改正である、と言う。
そして、十七条の憲法、五か条の御誓文、明治憲法に現された日本人の価値観こそ国家なのだ、と語る。
確かに、戦後生まれの私には「国家を守る」という発想は全くない。しかしその原因が、現憲法が国家を否定しているためだ、とは気がつかなかった。ましてや、国家が日本人の価値観の塊であるとは考えもしなかった。
私に「国家を守る」という発想がないのは、国家が国民を守ったことはなく、しばしば国民の人権を侵すからである。
そもそも国家という概念は、近代が生み出した幻想に過ぎないと考えている。
一方、「明治憲法に現された日本人の価値観こそ国家なのだ」と言われれば、明治憲法を否定している現憲法は、国家を否定していると言える。しかし、「明治憲法に現された【日本人】の価値観」という言い方はおかしい。正確には「明治憲法に現された【国家権力】の価値観」ではないだろうか。
そしてそれは、否定すべき価値観だと思っている。
「憲法とは国家権力に対する猜疑の大系である」と言ったのはトマス・ジェファソンである。
つまり、国家権力はしばしば人権を侵すので、それを疑いの眼をもってみる、その基準が憲法であり、だからこそ、第3章「国民の権利・義務」が重要になるのである。
そろそろ、自分の考え、意見、価値観、立場をはっきり主張しないと自分の暮らしさえ守れなくなりそうだ。
国を守るという価値観の元、公権力によって自分の暮らしと自分の価値観を失うことは、二度としてはならない。
2007年5月13日日曜日
自殺者の8割は周囲に相談していない
東京新聞(2007年2月12日夕刊)は、「自殺を図った人のうち約8割が「死にたい」と悩んでいることを周囲に相談していないことが、厚生労働省研究班の調査で分かった」と報道している。
そして、「(日本を)弱音をはける社会に変えなければ、根本的な解決にならない」という関係者のコメントを紹介していた。
日本の自殺者数は、年間約3万人で、男女比は7:3と圧倒的に男、それも中高年の男に多く、40~55歳の男性の死亡原因の第2位が自殺なのである(因みに第1位はがん)
リストラされたことを妻にも言えず、毎日定時に出社し、図書館や公園で時間をつぶし、定時に帰宅する。給料は友人やサラ金から借金して会社名義で自分に振り込む。しかしそんなことはいつまでも続かない。疲れ切った彼は、会社の隣のビルから飛び降りた。20年前のこと。私の知人の話である。
日本の男、特に中高年の男は、妻や家族に弱音を吐くことがなかなかできない。それでいて、妻のことを「お母さん」と呼び、生活のほとんどを依存している。生活のほとんどを依存しているからこそ、仕事についての弱音を吐けないのかもしれない。生活費を稼ぐことだけが自分の役割と考えているから、その唯一の役割がリストラなどで果たせなくなると、存在理由がなくなってしまうのかもしれない。とても悲しい話である。
だから、追い詰められた人が救いを求められる相談窓口が必要なのだと、識者は指摘する。
しかし、第三者に相談することができる人は、まだ救われる。本当に失望した人、自分に生きる価値がないと思いつめている人は、例え第三者に対してでも弱音を吐くことはできないのではないか。だから、誰にも相談せずに自死を選ぶのである。
つまり、相談窓口を増やすだけでなく、生きることの価値を多様化して、少なくても働いてお金を稼ぐことは生活の一部であり、「男の最も重要な役割ではない」ことを共有できる社会が必要なのではないだろうか。
また、夫が妻に素直に弱音を吐けるようになるには、妻が夫の弱音を受け止めることができなくてはならない。そのためには、生活費は夫に依存し、生活は妻に依存するという悪しき共依存をやめて、夫婦で生活そのものを共有する関係を創りだすことが大切だと思う。
今日は母の日である。妻に「お母さん、ありがとう」という夫も多いと思うが、それだけはやめた方がよい。妻は生活のパートナーであり、けっして「お母さん」ではないのだから。
2007年5月12日土曜日
再び、「情報を編集する」意味について考える
熊本の街では路面電車が活躍している。
かつて東京の街にも路面電車が走っていたが、増え続ける車の邪魔になるとして廃止された。
しかし、熊本の街を走る路面電車をみると、古いシステムが、最も新しいシステムに転換できる可能性を秘めていることを実感した。
さて、今日も「情報を編集する意味」について考えてみたい。
2007年4月6日。日本新聞協会は「いま、新聞に期待すること」と題したシンポジウムを開催。そこでの発言の一部が、2007年4月12日の日本経済新聞の朝刊に掲載されている。そこで、その一部を引用する。
まず、基調講演を行った堀田力氏(さわやか福祉財団理事長)は、新聞、テレビ、ネットの特徴を比較し、新聞の機能について「新聞が最も得意としているのはなにか。ニュースが報道される場合に、その起こった出来事が社会全体の流れの中でどういう位置づけにあり、どういう意味を持つかということを伝えられる点にある」と指摘している。そして、「もう1つの新聞の大きな役割は【パブリック(公)の形成】だ」と述べている。
新聞の機能について、シンポジウムに出席した岡部直明氏(日本経済新聞社専務執行役員主幹)は、「ニュースの価値をどう判断するかというところが新聞というメディアの最大の売り物だ。ある記事をどんな大きさで報じるかという判断は今の社会の状況を反映しているともいえる。すべての記事を並列に並べていては新聞にはならない。正しい価値判断に基づいて情報を編集するところが新聞社の機能だろう」と指摘し、新聞記事の最大の特徴は「正確さ」にあると、強調している。
新聞記事の正確さについて、平野啓一郎氏(作家;『ウェブ進化論』の著者である梅田望夫氏との対談集『ウェブ人間論』新潮社刊がある)は、「正確さということを求めれば、新聞は無色な情報を読者に提供してくれればそれで十分だという話になる。新聞社の意見や論説ではなく、情報さえ与えてくれば、あとはインターネットのブログを使って自分たちで意見を出し合いながら議論していくという考え方もありうるかもしれない」と発言している。
現在、インターネットで情報を収集する時、ほとんどの人が検索エンジンを使っている。この検索エンジンの代表がgoogleであるが、シンポジウムに出席したグーグル日本法人社長の村上憲郎氏は、「グーグルの検索結果は、入力したキーワードとの関連度の強さをコンピュータが判定し、結果表示の順位が決まる仕組みだ。これは情報の正しさとは無関係なので、極端にいえば検索結果のトップに表示された情報が【真っ赤なウソ】ということもある。そこがネットと新聞の情報の違うところだ」と述べている。
上記の平野氏の発言からは、平野氏が新聞に情報の編集を期待しているのか、期待していないのか、はっきりと分からない。この点が、シンポジウムの発言を活字化する限界で、それこそ記者の感性とリライト技術が問われる点である。発言を素直に解釈すると「インターネット上の議論を通して情報を編集できる可能性がある」と言っているようだが、文脈から解釈すると「正確性ではなく、情報の編集を新聞に期待している」と言っているのかもしれない。
ただし、日経新聞に掲載されたシンポジウムの要約から、新聞人は新聞の機能を「情報の編集」、「情報の意味づけ」にあると信じていることは間違いない。一方、平野氏や村上氏は、新聞のそうした機能は認めた上で、インターネットの中でも多くの人々の議論を経て情報が編集されていく可能性とその問題点を示唆しているのではないだろうか。
インターネットの中で情報がどのように編集されていくかを考えるうえで、非常に参考になるのが、【ブログの炎上】である。その点を明快に指摘しているのが、元ライブドア メディア事業部 執行役員上級副社長であった伊地知晋一氏の近著『ブログ炎上』ASCII刊である。伊地知氏は「炎上はネット的な市民運動の1つ」と位置づけ(同書p.147)ている。
つまり、インターネットの中での議論は、『荒しも』含めて、いずれ一定の方向に収斂していき、そこに意志が生じる可能性がある。
この意志こそが、堀田氏が新聞の大きな役割として期待している【パブリック(公)の形成】ではないだろうか。
もちろん、インターネットの中で生まれたパブリックが必ずしも正しい価値判断に基づいたものではないかもしれない。しかし、大手マスコミや一部のオピニオンリーダーが日本を戦争に巻き込んだ過去の事実を考えれば、たとえ間違ったパブリックでも、それが多くの人の議論の中で生まれたものなら、私たち一人ひとりの問題として受け止めることができ、主体的に修正することも可能である。
インターネット技術、特にブログのようなWEB2.0によって、大きな影響力を持った一部のオピニオンリーダや大手マスコミだけがパブリックを形成できる時代が終わろうとしている。
そんな気がしてならない。
情報を編集することの意味 新聞とブログ
5月11日。晴れ。今日から熊本へ。
風が強いため、離陸・着陸時に、飛行機はかなり揺れた。
私はジェットコースターは怖くて乗れないが、飛行機はいくら揺れても恐怖感を感じたことがない。むしろ心地良いくらいである。
この差は何処にあるのかと、考えたことがある。そして、1つの仮説を思いつき、その仮説を証明するためにジェットコースターに乗った。その結果、あんなに怖かったジェットコースターが全く怖くなく、快感をも感じた。
何をしたのか。「目を瞑っていた」のである。ジェットコースターが動き出してから止まるまで、ずっと目を閉じていた。
つまり、目の前の景色が猛スピードで変化することで、私は恐怖を感じていたのだ。
飛行機がいくら揺れても恐怖感を感じないのは、目の前の風景が全く変化しないからである。
羽田から熊本までは、約1時間40分。
その間に、『新聞社-破綻したビジネスモデル-』河内 孝著(新潮新書)を読んだ。
毎日新聞社の記者と経営者を経験した著者(1944年生まれ)は、新聞産業の経営モデルが大きく揺らいでいる原因の1つは、部数至上主義が生んだ極端な過当競争と編集工程を含めた生産や流通面での非合理性にあるという。そして、業界の再編成が必要であると説く。
本書は5章からなっているが、経営モデルの問題点の指摘とその再生に1~4章を割いている。
私がこの本を買ったのは、「インターネット時代における新聞の方向性」を模索する内容では、と思ったからである。しかし、その点について論じているのは、第4章の「新聞の再生はあるか」の一部と、第5章の「IT社会と新聞の未来」だけで、その内容もいたって抽象的であった。
新聞の機能について著者は、「新聞の機能とは何か、を突き詰めれば、プロの記者が記事を書き、対価を払ってそれを入手したいと思う読者がいるかどうかです。紙に印刷されているのか、ネットで見るのか、戸別配達されるのか、コンビニで買うのか、それらは二次的な問題にすぎない。社会的機能としての新聞の能力をもっと高めたいし、それに対する評価が下がっているなら、何とか復権させなくてはなりません」と記す(同書p.166)。
そして「新聞の復権」には、まず「経営体質を根本的に改革して業界の正常化を行い」(つまり、過当競争をやめて生産と流通の合理化を行う)、次に「ITの中に新聞機能が包含されるビジネスモデルへの転換を行う」ことが重要であると指摘する。
そして、「ITの中に新聞機能が包含されるビジネスモデル」とは、現在多くの新聞社が行っている「新聞社がITもやる」とは異なると記す(同書p.167)。
新聞機能について著者は「紙の新聞では、ニュース、読者が物事を判断するための解説や論説は、専門的な訓練を受けた人間によって選別され、編集されてきました。電子ペーパーという形であっても、一定のスペースに盛り込む以上、記事の価値によって、その大小や解説の有無が判断されます。その結果として一覧性という「見やすい」形に編集されるわけです」と記している(同書p.205)。
一方で著者はこうも指摘する「プロといっても所詮、記者は専門家の記者発表やレクチャーを聞いてリライトする職業。ならば情報発信元のウェブサイトやブログに直接アクセスすればいい、という考えがあっても不思議ではありません。すでにそのようにインターネットを活用している人も多いと思います」(同書p.206)。
そして、「日本で、世界でいま何が起きているのか。時代にどのような意味を持つのか。それが、自分の生活にどんな影響を与えるのか」という「知」への欲求。それに応える機能は、どう考えても、現在の新聞社あるいは通信社が持つシステムが最もふさわしいと思うのです。これからの新聞経営社は、その能力だけを残して、あとは全部捨てるぐらいの気持ちで、企業を再生すべきです」と記す(同書p.212)。
つまり、情報(ニュース)を選別し、その情報が時代や生活にどのような意味を持つかを解説し、1つの体系の中に編集するのが新聞の機能である、と著者は指摘する。
これは極めて正しいと思う。新聞や雑誌を作ることは、情報を一定の価値体系の中に編集することである。
しかし一方で、編集されていない情報を収集して、自分の価値体系の中で編集しようとしている人たちがいる。そして彼らが「情報発信元のウェブサイトやブログに直接アクセスすればいい」と考えているのである。このことも本書の著者は分かっている。
それでも著者は、一定の知識と見識を持ったプロが情報を編集すべきだ、と考えているのではないだろうか。
ここにこそ、「破綻したビジネスモデル」としての新聞社の実態があるのではないだろうか。
もはや私たちは、新聞社を「一定の知識と見識を持ったプロ集団」とは、考えていない。情報の選択基準も曖昧で風見鶏的雰囲気さえ感じる。
現在、情報の選択基準がかなりはっきりしているのは、日経新聞と赤旗、そして東京新聞だけである。
明日も「情報を編集することの意味」について、考えてみたい。
■写真は夜の熊本駅
2007年5月10日木曜日
生命を考えるやさしい眼差し
私の大好きな学者の1人が、生命誌研究館館長の中村桂子氏だ。
中村氏は『ゲノムが語る生命-新しい知の創出』(集英社新書)以来、暫く、読み物として楽しめる著作を出していなかったが、今年の3月20日に『「生きている」を見つめる医療-ゲノムで読む生命誌講座』(講談社現代新書)を出版。研究館のメンバーの1人山岸敦との共著。
久々に命を考えるやさしい眼差しに出会えた気分です。
中村氏は『ゲノムが語る生命-新しい知の創出』(集英社新書)以来、暫く、読み物として楽しめる著作を出していなかったが、今年の3月20日に『「生きている」を見つめる医療-ゲノムで読む生命誌講座』(講談社現代新書)を出版。研究館のメンバーの1人山岸敦との共著。
久々に命を考えるやさしい眼差しに出会えた気分です。
2007年5月8日火曜日
臨床の知
5月7日 月曜日。晴れて蒸し暑い。
今日は取材で関西の脳外科専門病院を訪ねた。
高齢化に伴って、近年、心房細動(しんぼうさいどう)と呼ばれる不整脈に悩む人が増えている。
この不整脈が怖いのは、重篤な脳卒中の原因になるからだ。
心房細動が起こると、心臓は不規則に早く動く。すると、心臓の中に血液の塊(血栓)ができ、それが脳の血管を詰まらせるのである。
こうした脳卒中を正確には心原性脳塞栓と呼ぶ。あの有名な巨人軍の元監督を襲った病気でもある。 昨年、この心原性脳塞栓に対する新しい治療が始まった。脳の血管に詰まった血の塊を薬で溶かす治療である。そこで、その実際を聞きに関西の病院を訪れたのである。
この病院には常勤3人、非常勤2人の脳外科医がいて、24時間365日、いつでも救急患者を受け入れる体制をとっている。もちろん、入院ベットに空きが無く、医師たちが手術中の場合には、受け入れられないこともあるが、「1人でも多くの人を救いたい」というのがこの病院のモットーであるという。
一般に、病気の治療については、それぞれの学会が「治療ガイドライン」をだして、効果があることが証明されている治療方法を具体的に推奨している。
脳卒中についても病型ごとの治療方針がガイドラインで示されているが、この病院では、さらに一歩踏み込んだ強力な治療を行って成果を上げていた。
「学会のガイドラインに示された治療を行っても、良くならない患者さんがいます。そうした患者さんに対しては、私たちが出来得る最善の治療を行いたい」と若い脳外科医は言う。
時にそうした治療は、保険診療と認められないこともある。つまり、ただ働きになるが、「良くならない患者さんを前にして、座して待つわけにわいかない」と、脳外科医は言い切る。
以下は一般論で、取材とは全く関係ない。
例えば、治療ガイドライン通りに治療していれば、たとえ患者さんが亡くなっても、医師はやるべきことは十分に行ったとして、責任を問われることはない。一方、治療ガイドラインを超えた治療を行った場合、たとえそれが最適で必要な治療と信じて行っても、患者さんが亡くなると、医師は責任を問われることがある。だからこそ、治療前のインフォームドコンセントが重要になるが、医師の治療方法を的確に理解できる患者さんは、ほんのわずかであり、まして脳卒中などの重篤な病気で緊急入院した患者の意思など確認できない。そこで、家族の承諾を必要とするが、身内が生死の境をさまよっているときに、家族に冷静な判断を求めるのは難しい。
こうした修羅場の中で、刻々と変わる病状に瞬時に対応する的確な判断と経験に裏づけされた優れた技術が、救急医療の医師たちに求められる。
急性期の治療とは、こうしたものである。
つまり、教授たちが文献を基に作った「治療ガイドライン」と臨床現場におけるリアルワールドは、かなりかけ離れているのだ。そして、その間を埋める知恵を私たちはまだもっていない。
臨床の知は普遍化できないものなのだろうか。
■お勧めの一冊
救命センターからの手紙
2007年5月6日日曜日
5月6日 雨
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